訴訟との関係は重要な論点なので、細かいことだが確認しておく。「元従軍慰安婦・金学順さん(手紙 女たちの太平洋戦争)」という1991年12月25日の朝日新聞朝刊の記事で、植村隆記者は、彼女の証言としてこう書いている。
私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました。

「そこへ行けば金もうけができる」。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした。

平壌駅から軍人たちと一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。
他方、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」の訴状はこうなっている。
原告金学順は、14 歳から妓生(キーセン)学校に3年間通ったが、1939 年、17歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で1歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に3日間乗せられた。
子供が親の借金を負って娼婦になり、その給料で借金を返すのは、厳密にいうと人身売買ではなく年季奉公で、吉原にも多かった。キーセン学校に通ったことでもわかるように、金は自分でキーセンという職業を選んだのである。この点は、のちに彼女が『証言「従軍慰安婦」』という本でこう証言している。
母は私を妓生を養成する家の養女に出しました。母は養父から40円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。
ところが植村記者の記事には、このキーセンのくだりがすっぽり抜けている。訴訟が起こされたのは12月6日だから、彼はそれを読んだはずだが、14歳から17歳の部分を意図的に落として、いきなり「そこへ行けば金もうけができる」といわれたように書いている。

40円をもらったのはキーセンに仲介した養父だが、植村氏の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。これは第三者に連行されたという印象を与えるためだろうが、朝日の検証記事も示唆しているように、事実のねじ曲げの疑いが強い。

さらに奇妙なのは、記事にも訴状にも「強制連行」が出てこないことだ。ところが1995年に出版された『証言「従軍慰安婦」』では、彼女はこう証言している。
北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。姉さんと私は別の軍人に連行されました
ここで初めて「連行」という言葉が出てくる。これは朝日新聞が強制連行という言葉を使ったため、それに合わせて証言を変えたものとみられる。訴訟でも、控訴審からは訴状に「強制連行」という言葉が出てくる。

福島氏が1991年にNHKに売り込んできたのは「元慰安婦が給料の支払いを求めている」という話で、それだけなら裁判で却下されて終わりだった。そこに朝日の「強制連行」という誤報が出たため、彼女はこれを利用しようと考えたのだろう。単なる戦時賠償が認められないことは、過去の判例からも明らかなので、「強制連行」を付け加えれば金を取れる、と考えたものと思われる。

さらに朝日がその作戦に乗って「強制連行はなかったが強制性はあった」というキャンペーンを始めたので、大混乱になった。朴慶植のいう強制連行(徴用)が朝鮮人女性になかったことは明白だが、「強制性」とぼかせば何でも入る。吉見義明氏によれば、植民地では、たとえ本人が自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、慰安婦はすべて強制なのだから、史実を調べる必要もない。

このように慰安婦事件は、朝日新聞の誤報が発火点だったが、それを訴訟に利用して慰安婦の証言をミスリードした福島氏などの弁護団と、その結論にあわせて「強制性」を際限なく拡大解釈した吉見氏などの左翼学者が共同で創作した、壮大なフィクションである。これを徹底的に検証してすべて撤回するまで、日韓関係は正常化しない。