神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)
きのうの記事の補足。「原子力村は悪だから、彼らの話は嘘だ」というように善悪によって真偽を決める呪術的思考は、人類の圧倒的多数派である。むしろ「価値判断と事実は独立だ」という思想が、西洋近代以降の新しいものだ。

これを「科学者がキリスト教会と闘って実証主義を確立した」と思っている人が多いが、それは歴史的には間違いである。近代の自由主義の起源は、宗教戦争を収拾するために宗派間の妥協として生まれた寛容の思想としての信教の自由にある。
ジョン・ロックとともにその元祖になったのが、スピノザである(当時はほとんど知られなかったが)。彼は本書で「哲学は信仰と切り離すべきだ」とくり返し主張している。人々には自由に考え発言する自然権があるからだ。これは今では自明の話だが、17世紀のオランダでは危険思想とみなされ、彼は教会から破門された。

事実が信仰と切り離されたら、何によって真理を決めるのか。政治的紛争が起こったとき、神の名によって正義を決定できないと社会不安になる――こういう問題を認めた上で、スピノザは「国家は自由のためにある」という。すべての人々が同一の信念をもつことは不可能なので、最小限度の公理(「神は存在する」など)は教会が決め、政治問題は国家にゆだねて議会で決める民主制が望ましい。国家は、個人との契約で彼らの自由を守る制度である。

このように神による最終決定を否定する信教の自由は、無神論をはらむ危険な思想である。それは近代のオランダやイギリスのように宗派間の勢力が均衡していた国では辛うじて維持されたが、ドイツでもロシアでも日本でも、20世紀後半まで言論の自由はなかった。今でも反原発派のように、信仰で事実を決める人々は絶えない。

スピノザも認めたように、原理的には信仰から独立な真理はありえない。認識はすべて「理論負荷的」であり、科学でさえパラダイムに依存している。だからこそつねに自分のバイアスを自覚し、定量的データで語り、反証を受け入れ、少しでも客観性に近づこうとする態度が必要なのだ。