メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却
集団的自衛権をめぐる騒動は、60年安保に似ている。当時も安保条約なんてほとんどの人は知らず、新聞が「アメリカの戦争に巻き込まれる」という不安をあおって騒ぎを作り出したのだ。最初は一部の学生・知識人にとどまっていた運動が、1960年6月の国会通過の数ヶ月前から、急に盛り上がった。そのきっかけが、全学連主流派(ブント)の国会突入だった。

清水幾太郎は、60年安保の主人公だった。今では忘れられた人物だが、当時は「いまこそ国会へ」というアジテーションを発表し、全学連を支援する声明を出した(丸山眞男は署名しなかった)。このときの騒動をのちに振り返って、清水は「何をやりたかったのか自分でもわからない」といっている。
本書は「二流の知識人」だった清水の生涯をあとづけ、「一流」だった丸山と対比して「進歩的知識人」の心理を意地悪く描いている。戦中は読売新聞の論説委員として戦争に協力し、戦後はマルクス主義に近い立場をとった清水が、60年安保で「進歩的知識人」のまとめ役になったのは、どの時代でもそれが主役だったからだ。彼はつねに脚光を浴びていたいという欲望から逃れられなかった。

しかし60年安保が不発に終わったあと、彼は「論壇」の主役をはずれ、進歩派は吉本隆明のように極左に流れるか、丸山のように書斎に撤退してしまう。しかし撤退すべき本業をもたない清水は、つねに注目を浴びようと「右旋回」を始める。彼は『諸君!』の常連になり、1980年に発表した「核の選択――日本よ国家たれ」で大反響を呼ぶ。

清水の軌跡は、朝日新聞に重なる。戦時中は軍国主義だった朝日は、戦後は絶対平和主義に転向する。60年安保のときも、清水と同じように「安保条約は憲法違反だ」とか「強行採決は民主主義の破壊だ」という論陣を張ったが、条約の内容にはふれなかった。それは旧安保を日本にとって有利に改正するものだったからだ。

そして清水が「核の選択」を書いたころ、朝日新聞は原発推進の論陣を張る。これも動機は同じだ。「革新陣営」の賞味期限が切れ、「現実派」のほうが受けるようになったからだ。このころは石油危機の衝撃もあり、大江健三郎氏まで含む多くの人々が「原子力の平和利用」に希望を見出していた。

もし清水が生きていたら、今ごろ「原発ゼロ」の論陣を張っていることは確実だ。その動機は、原発推進から大転換を遂げた朝日新聞と同じだ。それが格好いいからである。原発が本当に危険かどうかとか、エネルギー供給がどうなるかには興味がない。自分が人より目立つ「進歩的な人」でいたいのだ。

本書が辛辣に指摘するように、清水の生き方は徹底したマーケティングだった。中身が正しいかどうかより、その入れ物が売れるかどうかが彼の関心事であり、つねに新しい包装紙を求め続けた。丸山のような一流は反時代的だが、清水のような二流は時代に迎合する。そして朝日新聞のような三流は、民衆を煽動して時代をミスリードするのだ。