集団的自衛権に反対した(と伝えられる)自殺未遂が話題になっているが、こういう頭のおかしい人は一定の確率で存在する。シュミットが本書で批判したように、フランス革命もそういう政治と心情を混同する政治的ロマン主義のもたらした悲劇だった。今週のメルマガの付録として、ちょっとメモしておく。
シュミットが政治的ロマン主義の代表としてあげるのは、ルソーである。一般には彼は「民主主義」の教祖として知られるが、「一般意志」は民主的な手続きで選ばれるものではなく、絶対君主と考えたほうがわかりやすい。
シュミットが政治的ロマン主義の代表としてあげるのは、ルソーである。一般には彼は「民主主義」の教祖として知られるが、「一般意志」は民主的な手続きで選ばれるものではなく、絶対君主と考えたほうがわかりやすい。
そういう絶対的な主権を根拠に絶対君主を倒す革命というのが矛盾しているのだが、この手のロマン主義に共通なのは「**を取り戻す」という復古主義である。「人間は生まれながらに自由で平等だが、至る所で鎖につながれている」というルソーの自然状態は、歴史的に何の根拠もなく、理想化された「高次の第三者」を過去に投影しているだけだ。
こういうカルトはありふれたものだが、不思議なのはそれがいつの時代にも、大衆を引きつけることだ。その原因をシュミットは、主観主義に求める。実証主義や保守主義が散文的なのに対して、ロマン主義はノヴァーリスなどの芸術家が担い手になっているのが特徴で、人々の理性ではなく感覚に訴える。
人は客観的真理や合理的推論で革命や戦争には参加しない。自分の生命を危険にさらすことは、個人を超える価値を信じないと不可能だ。ウィルソンなどが指摘するように、こういう信仰は類人猿にはみられないので、人類に固有の遺伝的な行動と考えられる。それはトマセロのいうコミュニケーション欲求として集団淘汰で言語と共進化したと思われ、民族や文化を問わない。
キリスト教は、この点で史上最強の政治的ロマン主義といえよう。そこには天地創造という「原初」の神話があり、人々は原罪で堕落したという終末論がある。これに対して、儒教はついにそういう人々の内面を救済する物語を持ちえなかった。この意味で儒教は宗教ではなく、革命思想にもなりえない。
ところがこれを「天子の権力を臣下が簒奪してはならない」と理解し、日本の正統的な君主である天皇に権力を「取り戻す」と考えた政治的ロマン主義が尊王思想だった。これはきわめて特殊な儒学の日本的変種だが、長州の一部の武士が信じ、その教祖である吉田松陰が殉教したことで、美意識に高められた。これが靖国神社から安倍首相に至る長州史観である。
シュミットがバカにしたように、政治的ロマン主義は思想的には低俗なプロパガンダである。しかし社会を動かすのは(一部の知識人しか理解できない)合理的な理論ではなく、大衆を酔わせるロマン主義的プロパガンダなのだ。それは図らずも、シュミットの支持したヒトラーが証明した。
こういうカルトはありふれたものだが、不思議なのはそれがいつの時代にも、大衆を引きつけることだ。その原因をシュミットは、主観主義に求める。実証主義や保守主義が散文的なのに対して、ロマン主義はノヴァーリスなどの芸術家が担い手になっているのが特徴で、人々の理性ではなく感覚に訴える。
人は客観的真理や合理的推論で革命や戦争には参加しない。自分の生命を危険にさらすことは、個人を超える価値を信じないと不可能だ。ウィルソンなどが指摘するように、こういう信仰は類人猿にはみられないので、人類に固有の遺伝的な行動と考えられる。それはトマセロのいうコミュニケーション欲求として集団淘汰で言語と共進化したと思われ、民族や文化を問わない。
キリスト教は、この点で史上最強の政治的ロマン主義といえよう。そこには天地創造という「原初」の神話があり、人々は原罪で堕落したという終末論がある。これに対して、儒教はついにそういう人々の内面を救済する物語を持ちえなかった。この意味で儒教は宗教ではなく、革命思想にもなりえない。
ところがこれを「天子の権力を臣下が簒奪してはならない」と理解し、日本の正統的な君主である天皇に権力を「取り戻す」と考えた政治的ロマン主義が尊王思想だった。これはきわめて特殊な儒学の日本的変種だが、長州の一部の武士が信じ、その教祖である吉田松陰が殉教したことで、美意識に高められた。これが靖国神社から安倍首相に至る長州史観である。
シュミットがバカにしたように、政治的ロマン主義は思想的には低俗なプロパガンダである。しかし社会を動かすのは(一部の知識人しか理解できない)合理的な理論ではなく、大衆を酔わせるロマン主義的プロパガンダなのだ。それは図らずも、シュミットの支持したヒトラーが証明した。



