支那論 (文春学藝ライブラリー)
河野談話の「検証」の結果は予想どおりで、韓国が政治決着を「そんな話はしていない」と反故にするのも予想どおりだ。裁判でいえば和解の約束を一方的に破ったようなものだが、これが中韓スタンダード。彼らは合理的な議論のできる相手ではない。

今からちょうど100年前に書かれた本書の第1論文でも、内藤湖南は辛亥革命を東洋的専制に引き戻した袁世凱を強く批判し、中国では立憲主義や共和制は成功しないと論じる。その理由として彼も、中国が弱い国家であることをあげる。
つまるところ近来の支那は大きな一つの国とはいうけれども、小さい地方自治体が一つ一つの区画をなしておって、それだけが生命あり、体統ある団体であるが、その上にこれに向かって何ら利害の観念をもたないところの知県[県知事]以上の幾階級かの官吏が、税を取るために入れ代り立ち代り来ておるというに過ぎない。それで謂わば殖民地の土人が外国の官吏に支配されておるのと少しも変わらないのである。(p.108)
このような地域を階層的に編成したのが、中国の伝統的な王朝だった。それは皇帝の下に中央官庁があり、その下に省があり、その下に県が…というように多くの階層があり、それぞれの段階で下の階層を収奪した。この構造を、王国斌フラクタルと呼んでいる。

大きなピラミッドの中に同型の小さなピラミッドがあり、その中にさらにピラミッドが…というように再帰的な構造になっているのは、丸山眞男が天皇制についてのべた結晶構造と同じだが、方向が逆である。
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中国では皇帝が科挙で選ばれた高級官僚の(文字どおり)生殺与奪の権を握って命令を聞かない者を排除し、その官僚は地方から搾取し…というトップダウンになっている。これに対して日本では、天皇は「しらす」だけで実質的な支配権は幕府などの臣下がもち、その権限はさらに大名に委任され…というように権限は下へ下へとおろされ、部下が決めたことを上司が稟議書で承認するボトムアップだ。

夷狄の侵略を防ぐとともに農民反乱を圧殺するにはトップダウンがいいが、収奪される農民は国家に敵対し、権力者を信用しない。これに対してボトムアップの「下克上」の構造では、農民が納得しないと増税もできないので現場のモチベーションは上がるが、指揮官がいないので対外的な戦争には弱い。幸い日本は侵略されなかったので、この平和ボケ国家で1000年以上やってきた。

中国(および韓国)と日本は、このように国家の構造が180度ちがうので、相互理解はきわめて困難だ。どっちが普通かといえば、中韓のように国家も民衆も互いに信用しないのがアジアの多数派である。日本みたいに「慰安婦の証拠はないが、謝れば相手も許してくれるだろう」と期待して一方的に譲歩するお人好し国家は、世界のどこにも存在しない。