今週の福島第一原発の記事について「日本では、どこへ行っても優秀でまじめな現場と無能で何も決めない指揮官がいる」とコメントしたら、多くのRTがあった。これは日本のサラリーマンの永遠のテーマだが、その答がマルクスにある、といったら我田引水だろうか。彼は1867年の「暫定一般評議会代議員への指示」で、次のように書いている。
協同組合運動は、階級敵対に基礎をおく現在の社会を一変させる諸力の一つである。この運動の大きなメリットは、窮乏を生み出している資本への労働の従属という専制的システムを自由で平等な生産者のアソシエーションという共和的システムに置き換えることができることを、実地に証明する点にある。
ここで彼は資本主義を「専制」ととらえ、来るべきアソシエーションを「共和制」と書いた。これはきわめて重要な指摘であり、新古典派経済学がいまだに到達できない資本主義の本質である。資本主義は資本家の専制であり、日本の企業は共和制だから、両者は似て非なるものだ。

アーレントはアメリカ合衆国憲法について「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和制の内部において主権を徹底的に廃止したこと、そして人間事象の領域においては主権と暴政とは同一のものだと洞察したことであった」と高く評価した。

共和制とは主権なき政治であり、残余コントロール権なき組織である。それは全員が合意できる(どうでもよい)決定は容易にできるが、意見がわかれてどちらも過半数を取れなくなると、今の安倍政権のように何も決まらない。マキャベリも嘆いたように、有権者がみんな「徳」をもたないかぎり共和制は維持できないのだ。

これは標準的な企業理論から導ける。労働者が経営者になるパートナーシップ型の組織が最善になることはまれであり、普通は拒否権の行使でデッドロックになってしまう。それがうまく行くのは、一時のゴールドマン・サックスのように、全員がきわめて高い知的水準とコンセンサスを共有しているときだけだ。

日本型資本主義も、きわめてハイコンテクストの人々だけで成り立つ洗練された共和的システムであり、ここまでうまく行ったのは、平和で利害が対立する問題があまりなく、日本人の知的水準が高いからだろう。それはマルクスの理想とした「協同社会」に近いが、残念ながらきわめてローカルな条件に依存している。資本主義はローコンテクストなので、粗野だが普遍性がある。

優秀な現場は、弱い(無能な)指揮官を好む。何も決めないで現場に丸投げする安倍首相は日本的な「やさしいリーダー」であり、いつでも交換可能だ。こういう共和的システムでコンセンサスがなくなったとき、「大きな決定」ができるのは外圧だけである。シュミットのいう例外状態における主権は、アメリカにあるのだ。