ロバート・ソローが、ピケティの本について長文の書評を書いている。資本主義のご本尊みたいな人がマルクス主義者の本を「ピケティは正しい」と評価するのは驚くが、その内容は原著を理論的に明快に説明しており、示唆に富む。

彼の解釈は、要するに「ピケティの示しているのは新古典派成長理論の定常状態だ」ということである。いま労働人口と技術を一定とし、Kを資本ストックとする。所得Yが資本Kで決まる収穫逓減の生産関数Y=F(K)を考え、貯蓄率をsとする。投資は貯蓄に等しくなるのでsYになり、資本の減耗率をdとすると、新古典派成長理論では資本蓄積がその減耗と等しくなるまで成長し、sY=dKとなる点K*で定常状態になる。

solow
生産性に応じて所得が分配されるとすると、定常状態では資本家のシェアsYと労働者のシェア(1-s)Yは不変だが、成長も止まる(ソローは技術進歩を考えているが、本質的に同じなので省略)。しかし労働人口が増えると、図のように生産関数が上にシフトして成長し、所得がY'=Y+ΔYとなり、最適資本ストックもK'に増える。

ここで問題なのは、人口増加分の所得ΔYは誰のものになるのかということだ。労働者の賃金が労働生産性で決まるとすると、労働人口が増えるだけだから賃金が上がる理由はない。賃金が一定だとすると、ΔYは資本家がすべて取るから、結果として資本収益率(資本収益/所得)が上がる。つまり限界生産力説を取っても、資本家が成長のリターンを取ると"rich-get-richer"現象が起こり、所得分配は不平等になるのだ。

この超簡単モデルで、ピケティの示した統計的事実はほとんど説明できる、というのがソローの意見である。ここで重要なのは、所得から要素価格を引いた外部性の利益を資本家がすべて取ることだ。これは限界生産力ではなく、ハートのいうように、資本家は労働者の使う物的資本を所有するがゆえに労働者に対して支配力をもつという残余コントロール権である。

理論的にいうと、労働者がすべて個人タクシーのような自営業者(生産関数が線形分離可能)でない限り、限界生産力で所得を分配することはできない。チーム生産の外部性が誰に帰着するかがわからないので、共通コストをだれも負担しないモラル・ハザードが生じるからだ。これを防ぐには、経営者が労働者をモニターして限界生産力まで働かせ、その報酬として産出量から労働者への支払いを差し引いた残余を得ればよい(Alchian-Demsetz)。

いずれにしても限界生産力を超える残余をすべて資本家が取るという資本主義の原則が、資本収益率が高まって格差が拡大する原因である。つまり所得分配については、資本蓄積にともなって労働者が(相対的に)窮乏化するというマルクスの予想が正しかったのだ。

追記:ここでは普通のソローモデルとは違ってYは一人あたり所得ではなくGDPなので、労働人口が増えるとYがY'に増えるが、賃金は増えない。技術進歩も同様のシフト・パラメータだが、労働生産性を高めるので賃金も増える。本家のソローモデルでは、資本の限界生産性(MPK)は、労働人口増加率をn、生産性上昇率を gとするとMPK-d=n+gなので、nの増える分だけ格差が拡大する。