保守派の理論的支柱であるEconomist誌が、毎週のように(ピケティに関連して)マルクスの記事を書いているのをみると、時代が一めぐりして彼が普通の古典として読まれる時代が来たような気がする。今では誰もが「終わった思想家」と思っているだろうが、実はほとんど理解されてもいない。

「マルクスの入門書としていいのは何ですか?」とよく聞かれるが、残念ながら現役の本にはない。池上彰氏のようにありきたりな「格差社会論」にしてしまうのも感心しないし、橋爪大三郎氏の本はマルクスのテキストをろくに読んでもいない。他方でマルクス文献学者の本は精密に読んでいるだけで、何も現代性がない。
本書は絶版で、アマゾンでは12600円という値段がついているが、いまだにマルクスの解説書としては最高傑作だと思う。入門書としてはむずかしすぎるが、38歳の廣松渉の文体は後年の衒学的な文体より読みやすい。マルクスを素朴実在論に帰着させるレーニン以来の「弁証法的唯物論」を否定し、フッサール以降の20世紀の認識論と重ねる「物象化論」は、当時の新左翼に大きな影響を与えた。

いま読むと、ほぼ同時代だったアルチュセールの「構造主義」と同じような議論を、彼よりはるかに精密な文献考証にもとづいてやっている。のちにデリダがやった『マルクスの亡霊たち』の主観的価値論としての読み直しも文献学としてはお粗末だが、廣松はその20年前に『資本論の哲学』でくわしく論じていた。

ただ文献学としては問題があり、「マルクスが主体・客体の図式にもとづく疎外論を脱却して、共同主観的な物象化論に進化したと」いう解釈は、ひいきの引き倒しである。デリダが批判したように、マルクスは古典派経済学を批判して価値の「亡霊性」を論じながら、最終的には労働価値説という本質主義に回帰してしまったのだ。

このためマルクスの経済理論は使い物にならないが、その古めかしいレトリックを脱色して読むと、意外に新しい。そこでは新古典派経済学の扱えない(最近の不完備契約理論がやっと発見した)ガバナンスの問題が語られており、最後の「本源的蓄積」では宗主国と植民地の関係が資本家と労働者のメタファーとして語られている。これは最近になってウォーラーステインが発見したグローバル資本主義のメカニズムである。

私の手元にある本書は、1971年に出た初版だ。高校生にはほとんど理解できなかったが、その後、駒場キャンパスで彼の講義を聞いたときは感動した。版元の三一書房は、今はこういう本を出す出版社ではないようなので、他の出版社が文庫で復刻してほしい。