日本近代史 (ちくま新書)
きのうのアゴラ読書塾では本書を読んだが、そのとき話題になった「明治14年の政変」について補足。この事件は、名前も地味なのでほとんど知られていないが、『福翁自伝』にも出てくる重要な政変である。

福沢諭吉は「大笑ひな珍事」とぼかしているが、このとき福沢と大隈重信などの交詢社のメンバーが反逆の容疑をかけられ、大隈とそのグループの官僚が罷免された。このとき彼らの盟友だったはずの板垣退助が大隈を支援せず、自由党を結成した。ここには複雑な事情があった、と著者は解説する。
もともと板垣や植木枝盛などの急進派は政府から排除されたドロップアウトなので、政権を取る気はなかった。彼らにとって議会は、政府に対して文句をいう苦情処理機関で、多数派になるのは拒否権を発動するためだった。ここでは「天皇の官吏」が立法府=行政府で、議会はそれに文句をいうだけの万年野党だったのだ。

福沢や大隈はイギリス型の立憲君主制をめざしたが、井上毅や伊藤博文などの保守派はこれを「主権は専ら議院に在りて、国王は徒に虚器を擁するのみ」として拒否し、プロイセン型の君主が実権をもつ憲法をめざした。この保守派と急進派の利害が一致し、井上は板垣などと連携して福沢・大隈グループを政権から追い出し、プロイセン型の明治憲法を起草した。

これは政変としては大した事件ではないが、その後100年以上にわたって日本の「国のかたち」を決める出来事だった。このとき交詢社グループの考えたように議会が実権をもつイギリス型の憲法をつくっていれば、予算が際限なく膨張することを阻止して愚かな戦争も防げたかも知れない。

この「政策を決める官僚機構と国民に迎合する議会」という組み合わせが明治時代に定着し、今も続いている。自民党でさえ、政策立案は議会の仕事だとは思っていない。すべての政党が万年野党になる拒否権型議会主義は、明治14年に生まれたのである。