株価は下がり続け、アベノミクスの挫折が明らかになって、市場には悲観的なムードが漂ってきた。このままでは可処分所得は2050年に半減するので、日本が貧困化することは避けられない。「脱成長」をめざすのは愚かだが、成長なしで生きる知恵が必要だ。
その一つは、労働を苦役と考え、それによって得た生産物の価値を幸福の尺度とする手段的合理主義を捨てることだろう。歴史上のほとんどの時期において労働は遊びと分離されておらず、それ自体が生きる目的だった。中世ヨーロッパの農業社会では、1日は時計の時間ではなく、鳥の鳴き声や太陽の光で始まる。仕事には決まった就業規則があるわけではなく、それぞれの共同体時間で始め、休憩して終わった(池上俊一『遊びの中世史』)。

しかし城壁で自然から隔てられた都市で多くの人々が生活するようになると、教会と世俗的な生活が分離し、工場で働くようになると、労働が規則化された。都市には時計台が設置され、人々が厳密に同じ時間を守るようになった。時間が全国どこでも同じになり、暦がグレゴリオ暦で統一されるようになったのは16世紀以降である。

就業規則が作られ、人々は工場にある時計に従って働き、労働時間とそれ以外の「余暇」が分離した。工場では、人々は限られた時間の中で休む暇もなく懸命に働いた。ギルド的伝統の強い職人の職場ではごく普通だった仕事中の飲酒は禁じられ、日曜日に酒を飲んだために月曜日に仕事を休む「聖月曜日」の慣習もなくなった。

このように労働が人間から「疎外」されたことを批判したのがマルクスだった。このヘーゲル的な概念は後年のマルクスの著作からは消えたが、労働=受苦という状態を解決することが彼の終生のテーマだった。彼が自由の国と呼んだ未来社会は、価値法則の必然が貫徹する必然から解放されるとともに、欠乏や必要の支配する必然の国=必要の国からの解放だった。

マルクスは資本論で「社会化された人間が物質代謝に支配されるのではなく、この物質代謝を合理的に規制し、自分の共同の統御のもとに置く」社会を構想したが、「これはまだ必要の国だ」という。人類のゴールは、労働そのものが目的になる世界なのだ。
自由の国は、必要と外的目的性に迫られて労働することがなくなったとき、初めて始まるのである。だからそれは当然のこととして、現実の物質的生産の領域の彼方にある。[…]この国の彼方に、自己目的としての人間の力の発展が、真の自由の国が始まる。それは必要の国をその基礎としてのみ花咲きうるにすぎない。労働日の短縮がその根本条件である。(『資本論』第3巻48章)
マルクスの未来社会とは、必要に迫られて労働するのではなく、働くことが目的になる社会だった。これは「労働が遊びになる」という『ドイツ・イデオロギー』や、科学や芸術のように労働が消費になる社会的知性を構想した『経済学批判要綱』の思想を受け継ぐものだ。それは夢物語のようにみえるが、労働か遊びかわからないソーシャルメディアは、労働が自由時間になる時代をいつか実現するかもしれない。