人類はどこから来て,どこへ行くのか
社会科学の研究者が生物学の本を読むのは、普通は好事家的な興味しかないが、ここ10年ぐらいの進化生物学の論争は社会科学にも影響を及ぼすと思う。それは従来の進化論の主流だった血縁淘汰(包括適応度)と、著者などの主張する多レベル淘汰の論争だ。進化生物学の世界的権威が82歳で書いた本書は、進化論から人類の未来を展望する傑作である。

従来の理論では、生物は遺伝子の複製という一つの目的を最大化する機械だと考えられているが、新しい理論では生物は個体と集団という二つのレベルの合計で適応度を最大化すると考えられている。これについては「集団淘汰も包括適応度で説明できる」という反論があり、多くの証拠を検討した結果、著者は個体レベルだけでなく集団レベルでも淘汰が起こると結論する。
人間も利己的な動機と利他的な動機を遺伝的にもち、理性と感情の葛藤に引き裂かれてきた。利己的な欲望から利他的な行動を論理的に導こうとする(ゲーム理論のような)啓蒙主義を著者は否定し、同情、報復、名誉などの感情は利己的な目的に帰着できず、それ自体に進化的な意味があるとする。

こうした感情は利己的な欲望と同じくほとんどの生物にそなわっており、人類の場合はしばしば利己心を圧倒するぐらい強い。それは人類が激しい戦争を繰り返し、「集団の存続なしに個体が存続できない」という強い条件づけができたためだと考えられる。「愛国心」のために命を捧げる非合理的な感情は「利己的な遺伝子」の戦術ではなく、集団を守るメカニズムなのだ。

おもしろいのは、遺伝と文化の共進化が広くみられるという話だ。一般には新石器時代に入った1万年前からは遺伝的な変化はないと考えられている。しかし母乳に含まれている乳糖を分解する酵素ラクターゼは、成人すると生成されなくなるが、9000年前から牧畜が始まると、成人してからもラクターゼを分泌する個体が増えた。遺伝的に可能な形質の発現が、文化的な環境で共進化するのだ。

言語や宗教なども、同様に遺伝的に備わっている学習メカニズムが文化と共進化して生まれたのではないか、と著者は推測する。言語に実体的な「普遍文法」があるというチョムスキーの理論を著者は否定し、遺伝的にそなわっているのは言語習得能力だけだとする。宗教も言語と同じで「信じやすい感情」は集団淘汰でそなわったと考えられるが、「普遍宗教」などというものはない。

ウィルソンの「多レベル淘汰」理論には、いまだに学問的批判も強い。学説として確立した血縁淘汰の一種として説明できるという批判もあれば、他方では人間の社会的規範は文化的な慣習で遺伝子とは無関係だという批判もある。社会科学的には、これはどうでもいい問題で、結果として個体レベルとは別の集団淘汰が機能していることは疑問の余地がない。

経済学は、このうち個体レベルしか考慮していない点で、致命的に間違っている。集団レベルではBowles-Gintusの示したような感情に埋め込まれた行動様式があり、それが社会秩序の形成に重要な役割を果たしている。それは「非合理的」な行動ではなく、進化的には合理的に説明できる。本書は、社会科学者にとっても必読書である。