NHKの籾井会長は、日商の三村会頭に続いて同友会の長谷川代表幹事も「適切ではない」と発言し、余命は秒読みになってきた。こういう勘違いオヤジは例外としても、日本の企業でカリスマになろうとしてこけるケースは多い。それは日本社会にカリスマを殺すしくみが内蔵されているからだ。
ウェーバーもいうように、カリスマはモーツァルトやシェイクスピアのような非日常的な天才であり、制度的に設計できない。歴史上の王国は、こうした非凡な才能によって創立されたので、その求心力を継承するのは彼の血を引く子供であり、民主的な手続きで選ばれた後継者ではない。

企業の創業者はカリスマになれるが、国家権力を法律で制度化しても、カリスマの精神的権威は制度化できない。これが法の支配の弱点である。そこでアメリカ大統領の場合は、1年近い予備選と本選挙でカリスマが選ばれる。大統領の法的権限は弱いが、彼のシンボリックな求心力が国家を統合しているのだ。

中国の王朝もカリスマに依存していたが、支配が日常化すると求心力は落ちてくる。それを補うために科挙で高潔な官僚を選ぶシステムができたが、官僚は優秀でも、その一族が腐敗の温床になった。多くの官僚がこのシステムを改革しようとしたが、制度でカリスマをつくることはできない。

日本は、カリスマなしで凡人だけでやっていくシステムをつくった。凡人でも協力すれば、平凡だが品質の高い工業製品ができる。こういう凡人社会は戦争のような非日常に弱いので、普通は戦争で滅亡するが、日本は東アジアの端で奇蹟的に生き残った。それは天皇制で徹底的にカリスマを排除する社会なので、イノベーションには向いていない。

アメリカに平和を守ってもらい、国内は「下克上」のタコツボ構造でやっていく組み合わせはよくできていた。それは日本人が設計したわけではなく、歴史的偶然の生んだ「意図せざる適合」だが、非日常な戦争には弱い。おそらく日本に残された道は、遅まきながらウェーバーのいう「合理的支配」に転換することしかないだろう。