さっきの記事のおまけ。「憲法は憲法違反だ」という自民党議員の話はナンセンスだ。1947年当時はまだ交戦状態だったので、戦勝国が日本を支配して憲法を制定したのは当然で、彼らが日本の憲法に従う義務はない。しかしこれは単なるお笑いネタではなく、ここには(彼は知らないだろうが)近代国家のパラドックスが含まれている。
立憲主義とは「憲法で国家権力を拘束して個人の権利を守る」という思想だが、憲法を制定するのは国家だから、これは「国家が制定した憲法で国家を拘束する」という循環論法になる。国家が自分を拘束する憲法をつくるとは考えられないので、憲法を制定する国家=立法府と憲法で拘束される国家=行政府をわけ、両者が対立した場合は司法が判断するのが三権分立の思想である。

しかし日本の場合は司法機関の長である最高裁判所長官を任命するのは内閣総理大臣で、それを任命するのは国会だから、実は三権分立ではなく、国会が「国権の最高機関」である。では国会をだれが支配するのか。それは「主権者」たる国民だということになっているが、誰が国民の意思を決めるのか。

その根拠をルソーのような「一般意志」に置くのは、根拠のないフィクションである。これに対してバーク以来の保守主義では、法の根拠を伝統によって形成された慣習と考えるが、何が正しい伝統なのか――こう突き詰めていくと、カール・シュミットも指摘したように、どこかに疑いえない絶対者を置かないと国家は成立しないのだ。

それがかつては神だったが、今は国民という名前になっただけで、目に見えないのは同じだ。どっちが正しいかも自明ではない。デリダのように「正義とは脱構築できないもの」と循環的に定義するしかない。

したがって本質的な問題は、誰にも拘束されない立憲権力とは何かという点に帰着する。それを国民とするのが民主制だが、すべての国民が神を信じていればイスラムのような神政政治がいいし、全員が君主を信じていれば絶対王制が安定する。新憲法の場合はたまたまGHQだったが、これは正解だった。当時まだ残っていた帝国議会が制定したら、明治憲法の焼き直しのようなものができただろう。

これから憲法を改正するときの最大の問題も、この立憲権力の所在である。それは形式的には国会だが、実質的には自民党の派閥だったり「世論」だったり、官僚機構だったりする。内閣の末端の法制局が憲法解釈を決めるなどと野党がいっているようでは、改正への道ははるかに遠い。