今週のメルマガで書いたカール・シュミットの記事のおまけ。シュミットは、法制局の手本とするケルゼン的な実定法主義を否定した。法制局は条文の矛盾や重複を厳重に監視するが、どんなバカげた法律でも矛盾なしに書けるので、それは法律の正統性を何ら保証しない。
法律の形式に意味がないとすれば、その本質は何だろうか。シュミットは『政治的なものの概念』で、それは友か敵かという立場だとのべた。人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず「こいつは敵か味方か」を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。

朝日新聞の「法制局は法の番人だ」というナンセンスな社説は、その典型である。彼らは、かつて戦争をあおった罪悪感から戦後は絶対平和主義に180度転換し、自分に反対する者を「平和の敵」として糾弾してきた。特に安倍首相は朝日とともに戦犯だった岸信介の孫だから、嫌悪感は強い。彼らは「安倍をたたく」という結論を最初に決めてから論拠を考えているのだ。

都知事選で、朝日が「原発即ゼロ」の細川元首相を支持したのも、彼が安倍氏の敵だからだ。その政策が実現できるかどうかは問題ではない。敵の敵は友なのだ。反原発派が相手を攻撃するとき、そのリスクやコストの客観的評価ではなく「原子力村」や「御用学者」という藁人形をつくってたたくのも、同じレトリックである。

それが政治的言説の本質である。政治は集団を統合する技術なので、同じ信念をもつ人々が集まることを前提にしている。しかし主権国家という「大きな社会」の中で異なる信念をもつ人がいることから党派が生まれ、友と敵が共存するようになった。

ここでは「あなたが同意しないことに私は同意する」というヴォルテール的な自由主義は不可能である。Aumannが示したように、異なる意見をもつ人は異なる信念(事前確率)をもつので、多数決でどちらかの党派(信念)を選ぶしかない。つまり近代社会において真理はつねに党派的であり、政治的に中立な客観性は存在しないのだ。

したがって民主制はつねに党派の紛争による非決定性をもたらし、それを防ぐために独裁制にするとヒトラーが登場する。この矛盾は、シュミットの論じたように、主権国家という友と敵が共存する制度が続くかぎり避けられない。