社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)
本書のテーマは副題にある<閉ざされた社会>と<開かれた社会>だが、その問題設定は丸山眞男に依存しており、答も彼の「古層」と表層の二層構造だ。そこまでは周知の話で、それをどう理論的に説明するかが問題だが、最後は免疫とかアメーバとかいう比喩に逃げてしまう。そもそも両者の定義もはっきりしない。

ただ著者のいいたいことはわかる。日本社会の直面している問題は政権交代とか規制改革とかいうレベルではなく、閉ざされた社会から開かれた社会へのルールの変更である。両者の中間はないので、現状維持することはある意味で合理的な行動なのだ。
ゲーム理論でよく知られているのは、グライフのように前者を繰り返しゲーム、後者をワンショットのゲームと考えることだが、実はこの答には欠陥がある。こういうナッシュ均衡が実現するためには、非常に濃密な情報共有が必要なのだ。Aumann-Brandenburgerが証明したのは、3人以上のゲームでは、全員の共通事前確率と利得関数についての共有知識がナッシュ均衡の十分条件だという定理だった。

共有知識は「他人が知っていることを自分は知っているということを他人は知っている…」という無限階の知識なので、他人の推測に合わせて行動しなければいけない。少しでも推測と行動がずれると、ナッシュ均衡はまったく成り立たない。

これはナッシュ均衡が閉ざされた社会のモデルであり、他人のプライバシーを知らない(非人格的ルールにもとづいて行動する)開かれた社会では成り立たないことを示す。これはアロウの不完全性定理ぐらい驚くべき定理だが、日本人の行動様式をうまく説明している。

たとえば原子力規制委員会が「田中私案」なるメモで規制している件について、電力会社にいくら説明してもわかってもらえない。規制当局と電力会社は、互いの推測に合わせて行動してきたからだ。「原子力村」とか「規制の虜」などという通俗的な話とは違い、日本の官民関係には利害対立はないのだ。

法律も、アメリカに比べればはるかに簡素である。それは法律でカバーできない不完備性を暗黙の契約で補完し、互いの推測に合わせて行動しているからだ。しかしどちらかが相手の推測と違う行動をとると、ナッシュ均衡は崩壊してしまう。田中委員長の暴走は、官民関係を破壊してしまったのだ。しかし電力会社はいまだに昔の官民関係に合わせて田中委員長の行動を推測しているので、大混乱が続いている。

前にも書いたように、相関均衡で解けば共通事前確率(ルールの共有)だけで均衡は成立するが、最初にルールを決める神の手番が必要だ。それがキリスト教世界でしか法の支配が成り立たない理由である――こう書いても理解できる人はほとんどいないだろう。それをすべての国民が理解することが開かれた社会に移行する条件だとすると、その道のりは果てしなく遠い。