不確実性下の意思決定理論
意思決定理論の世界的権威、ギルボアの専門書。一般向けではないが、いまリスクや不確実性について経済学でどこまでわかっているかがわかる。原著についてはすでに書いたので、ここでは原子力を例に、不確実性をどう扱うかを考えてみよう。

いまだに「テールリスクは計算できないから無限大だ」という安冨歩のような頭のおかしい連中がいるが、もちろん計算できないというのは無限大だという意味ではない。本書も示しているようにすべてのリスクは主観的であり、厳密には計算できない。たとえば地震のリスクは計算できないが、それをゼロにすることは不可能だし、望ましくもない。
原発の不確実性は、エルズバーグ・パラドックスに似ている。瓶から赤い玉と黒い玉を取り出す確率が50%ずつとわかっているケースと、どちらかとしかわかっていないケースは、ベイズ的な確率論では等しいが、実験では人々は前者を好む。それは彼らがunknown unknownよりknown unknownを好むからだ。これを著者は認知的不安とよぶ。

石炭火力によって世界で毎年10万人以上が死ぬことは確実にわかっているが、原発によって何人死ぬかは計算できないので、多くの人は後者を恐れる。しかし過去50年で、OECD諸国では原発事故の死者は(福島を含めて)ゼロだ。計算できないリスクは一定の誤差を見込んで評価すればよく、人々は現にそうしている。ゼロにいくら誤差を見込んでも、火力より危険だという結論は出ない。

ベイズ確率論以外の理論も本書でいろいろ検討されているが、おなじみなのは最悪の場合の被害を最小化するミニマックス原理(MaxMin期待効用最大化)だ。しかしこれも社会的選択の場合は、だれの期待効用を基準に行動するかという問題が生じる。たとえば山崎元氏のように「GDPの1%程度の損害」ならすべての原発を廃炉にしてもいいというのは彼個人の期待効用だが、それが社会的な合意を得る可能性はない。

逆に原子力の専門家は「原発の安全性は高い」というが、いくら科学的な数値を出しても、認知的不安が解消できないかぎり、問題は解決しない。人々は「わからないものが恐い」とおびえているからだ。そして厄介なことに、エネルギー問題を最終的に決めるのは何も知らない有権者なのだ。

著者は、すべてのリスクは主観的なものだから、不確実性との本質的な差はないという。これはタレブと同じで、リスクをどう見るかはそれをどう負担するかという行動原則と一体だ。「原発のリスクをゼロにしろ」という人々がそのコストをすべて負担するのなら、それでいい。この意味でリスクの処理は倫理的な問題であり――反原発派のいうのとは違う意味で――科学の領域を超えた議論が必要だろう。