きのうの記事の続き。これはいま書いている本の結論部分なのだが、自分でも結論が出ないので、ここにメモして考えてみる(ほとんどの人は読む意味がない)。
ハイエクの実定法主義批判は正しい。経済学の実証研究でも支持され、今ではほとんど通説ともいえよう。しかし実は、はるか昔にシュミットが指摘した論理的な穴がある。それは法の正しさを慣習(コモンロー)が保証するとしても、その慣習が正しいことをどうやって証明するのかという問題である。それをバークのように伝統で説明すると、その伝統が正しいことを…という無限退行に陥る。

これは法哲学ではおなじみの問題で、正解は存在しない。たとえばシュトラウスも(ハイエクより前に)指摘したように、「共通善」は要請でしかありえないのだ。無限退行の不動点のようなものがあるとすると、デリダのいうように「正義とは脱構築できないものだ」ということだろう。

これは奇妙に聞こえるが、シュトラウスと同じことを逆説的にいっているのだ。つまり「その正義は**で脱構築できる」といえるような**が存在しないことを証明したとき、それは絶対の正義だが、そういう正義は存在しない。事実デリダは、何が正義であるかをまったく示さず、既存のすべての正義が脱構築可能であることをいろいろ例示するだけだ。

これは70年代のアメリカでデリダの影響を受けてはやった批判的法学の「法とは正義ではなく政治である」という主張の元祖だが、これは彼らもいうようにシュミットの主張である。つまり法とは条文の形式をとった特定の集団の信念や政治的利害の表明であり、それ自体が正しいかどうかを論じることには意味がないのだ。

これで終わりである。絶対の正義は存在しないので、あとはみんなで何を信じるかという問題しか残らない。この基準で考えると、日本のような「大きな閉じた社会」と、法の支配による「開かれた社会」の差は、実はそれほど大きくない。共有されるのが属人的な評判か非人格的なルールかという違いだけで、これはゲーム理論でいうとナッシュ均衡と相関均衡のような解概念の違いだ。

しかしこの違いは、大きいといえば大きい。ラフにいうと、ナッシュ均衡が成立するためには全員の利得関数について全員が知っていることを知っている…という無限階の共有知識が必要だが、相関均衡は全員が同じルール(たとえば「信号が赤なら全員が止まる」)を知っているという共通事前確率だけでいいからだ。

ナッシュ均衡は相関均衡の部分集合だが、両者の違いはゲームのルールの違いなので中間はない。たとえば踏切の信号が鳴ったり鳴らなかったりすると危険だ。どちらか一方にするしかないので、この切り替えは容易ではない。まして日本のように閉じた社会の「擬安定」が長期にわたって続いていると、この延長でやっていこうと努力することは自然である。細川氏のいう「脱成長」は、規範ではなく事実としては避けられないのかもしれない。