山本七平の本業はキリスト教の研究書の出版社だったが、彼のキリスト教論は常識的で、あまりおもしろくない。ただ本書は文字通り常識を書いた入門書なので、キリスト教をまったく知らない人にはいいかもしれない。

キリスト教団の創設者パウロは西暦64年に、ローマ皇帝ネロの弾圧で刑死したと推定されているが、これはある意味で驚くべきことだ。イエスが処刑されたのは30年ごろなので、そのわずか34年後にキリスト教団はローマ皇帝が弾圧するほどの規模になっていたことを示すからだ。
1世紀の地中海でキリスト教が「疫病のように」広がった一つの原因は、以前の記事でも書いたように、福音書という文学形式で教義を劇的な物語にしたことだろう。もう一つは教会を相互扶助の共同体とし、国籍を問わないで信徒になる人々を歓待したことがあげられる。

もう一つパウロに独特なのは、終末論である。最後の審判の日が来て選ばれた者が救われるというのはユダヤ教の時間意識だが、イエスは一度も「この世の終わりが来る」などと言ったことはない。しかしパウロは文字通り終末を信じ、それも自分の生きているうちにこの世の終わりが来ると信じて、そのイメージを具体的に描いた。
主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(第一テサロニケ4:15~17)
この終末にそなえることが、パウロの神学の中心である。そのとき人は最後の審判で天国に入る者と地獄に墜ちる者にわけられる。現世の限りある人生は、来世の永遠の生命のための準備期間だから、その目的は神を信じて天国に入ることだ。ここでは有限の直線として時間が想定され、その終末に向かってそなえる目的論として信仰が理解されている。

これは現代でも重要な論点である。高齢化社会で多くの老人は、孤独な老後を過ごさなければならない。彼らにとってもっとも切実な問題は年金でも医療でもなく、目的の喪失だ。仕事や家族を失った老人は「自分の人生はこれでよかったのか」という疑問や後悔で鬱病になり、時には死を選ぶ。

これほど物質的にめぐまれた日本で、旧社会主義国とならぶほど自殺率が高い原因は、戦後ながくなじんできた会社や地域共同体などのアイデンティティの崩壊だろう。これは社会保障を負の所得税などで合理化しようとする経済学者の見逃している側面である。老後のケアは単なる経済問題ではないのだ。

古代ローマでディアスポラの孤独をいやすためにつくられたキリスト教は、終末論でこの問題を乗り超えたが、無時間的な「つぎつぎとなりゆくいきほひ」しか知らず、目的意識のない日本人は、これから長い老後を何を信じて生きればいいのだろうか。