ヨーロッパ政治思想の誕生
法の支配の起源が12世紀以降の教会法にあることは、バーマンなどの指摘するところだが、それはどのようにして世俗的な法秩序になったのだろうか。本書はきわめて専門的な文献考証で一般向きではないが、国家と宗教の関係を考える参考になる。

教会法の原型になったのは、12世紀に再発見されたローマ法(ユスティニアヌス法典)である。それまでのヨーロッパの法律は、ローカルな民間法しかなかったが、カトリック教会が全ヨーロッパに浸透すると、その官僚組織を統制する法律が必要になった。それが教会法である。
これはローマ帝国の支配権を教会組織に移植したもので、ここでは教皇が皇帝の地位を占める。では世俗的な皇帝の地位は、どこに位置づけられるのだろうか? この点をめぐって長い論争が続いたが、次第に俗権の自律性が認められるようになった。これを理論的に裏づけたのが、同じころイスラム経由で輸入されたアリストテレスの『政治学』であり、それをキリスト教と接合したのがトマス・アクィナスだった。

トマスに代表される総合的・折衷的な神学には知的な独創性はないが、大学で教える膨大な神学体系は聖職者の特権を生み出した。全ヨーロッパに数百の大学(神学校)ができ、ラテン語が共通語として使われた。そこで学んだ聖職者は知的エリートとして、世俗的な国家を精神的に指導し、ヨーロッパを精神的に統合する役割を果たした。

しかしカトリック教会が巨大な官僚機構になると、荘園領主になった既存の修道院を離れて民衆に直接キリストの教えを布教しようという托鉢修道会が出現した。彼らは教会税で生活するのではなく、民衆からの寄付で運営し、その財産はすべて修道会で共有した。これは教皇に承認されたが、既存の教会とは各地で紛争を起こした。

特に大きな影響力をもったのがフランチェスコ修道会で、彼らは既存の修道院の腐敗を攻撃し、清貧の教えを説いた。この清貧論争でフランチェスコ派は、自分たちは教皇から承認されているので、地方の教会の干渉は受けないと主張した。このように教皇にカトリック教会全体についての支配権を集中したことが、のちの主権国家のモデルになった。

しかし托鉢修道会の影響力が大きくなって教会の権威をゆるがすようになると、教皇はフランチェスコ派の清貧の思想を異端と宣告して排除しようとした。これに対して、フランチェスコ派の修道士だったオッカムは多くの政治的文書で反論し、正統か異端かは教皇の権威ではなく聖書によって決めるべきだと論じた。

オッカムは破門され、教会を追放されたが、彼の思想はルターやカルヴァンに影響を与え、宗教改革の思想的起源となった。また統治の正統性の根拠を教皇という人格ではなく聖書というテキストに求めたオッカムの思想は、共和制の萌芽ともみることができよう。

いずれにせよ重要なのは、近代の主権国家は中世の教会秩序と世俗秩序の長い闘いの中から生まれてきたということだ。そこでは正統と異端をめぐる精神的な闘争ばかりでなく、権力や財産をめぐる暴力的な闘争もあった。

近代日本が西洋の法体系を輸入したのは、こうした闘争が世俗側の勝利に終わった後だった。明治政府はそれを支える権威を「現人神」や「国体」でローカライズしたが、法秩序としては機能しなかった。それは西洋の法秩序の深層構造にあるキリスト教の秩序感覚が、人々に共有されていないからだろう。