カール・シュミットがいうように、主権は神のメタファーであり、政治は神学である。したがって「国民主権」などというものは存在しえず、主権は絶対的な存在でなければならない。それは本書の冒頭の有名なことばのように「主権者とは例外状態について決定をくだす者」だからである。
例外状態とは、現代風にいえばテールリスクであり、定義によってあらかじめ規定できない事態である。ケルゼンに代表される実定法主義は、このような意味での主権を排除するが、テールリスクはつねに顕在化する。これをどう処理するかで、政治的立場がわかれる。
例外状態とは、現代風にいえばテールリスクであり、定義によってあらかじめ規定できない事態である。ケルゼンに代表される実定法主義は、このような意味での主権を排除するが、テールリスクはつねに顕在化する。これをどう処理するかで、政治的立場がわかれる。
共和制の無神論を突き詰めれば、すべての国家権力を否定する無政府主義に行き着く。ここでは「民衆はつねに正しく、当局は腐敗する」と想定されているが、現実の民衆はそれほど賢明ではないので、非決定性による混乱が生じる。その結果、バクーニンは暴力によって政府を転覆する独裁的な手法をとらざるをえなかった。
この逆に、カトリシズムは「当局はそれが存続しさえすれば善である」という政治的ロマン主義をとる。政治的決定においては、何かを決めることは何も決めないことにまさるので、国家が一方的に決定する家父長主義は効率的だが、これをチェックする制度がないと独裁に行き着く。
ここではキリスト教と無神論の闘いが、政治的なイデオロギー闘争の形で行なわれている。ワイマール体制を支配していたのが政治的無神論だとすると、その「決められない政治」を打破すると称してあらわれたナチスは政治的ロマン主義だった。そしてシュミットの支持したヒトラーも、彼が予言したように独裁になった。
しかしこの問題は、ヒトラーとともに葬られたわけではない。無神論にもとづく共和制は、無政府主義と家父長主義に分岐する危険をつねにはらんでいるのだ。「お上の決めることはつねに正しい」という自民党の家父長主義に対して、野党はいつまでたっても対立軸を形成できない。彼らはバクーニンのように「みんなの意見は正しい」と信じているからだ。
主権者とは、経済学のことばでいえば、契約で決めた以外のテールリスクを負担する残余請求権者であり、具体的には資本家である。資本主義は、市場経済の共和制の中に独裁を作り出す君主制なのだ。それは「みんなの意見が正しいとは限らない」というリアリズムにもとづくので、快適でも道徳的でもないが、制度間競争で勝ち残ってきた。政治にもシュミット的なリアリズムが必要だろう。
この逆に、カトリシズムは「当局はそれが存続しさえすれば善である」という政治的ロマン主義をとる。政治的決定においては、何かを決めることは何も決めないことにまさるので、国家が一方的に決定する家父長主義は効率的だが、これをチェックする制度がないと独裁に行き着く。
ここではキリスト教と無神論の闘いが、政治的なイデオロギー闘争の形で行なわれている。ワイマール体制を支配していたのが政治的無神論だとすると、その「決められない政治」を打破すると称してあらわれたナチスは政治的ロマン主義だった。そしてシュミットの支持したヒトラーも、彼が予言したように独裁になった。
しかしこの問題は、ヒトラーとともに葬られたわけではない。無神論にもとづく共和制は、無政府主義と家父長主義に分岐する危険をつねにはらんでいるのだ。「お上の決めることはつねに正しい」という自民党の家父長主義に対して、野党はいつまでたっても対立軸を形成できない。彼らはバクーニンのように「みんなの意見は正しい」と信じているからだ。
主権者とは、経済学のことばでいえば、契約で決めた以外のテールリスクを負担する残余請求権者であり、具体的には資本家である。資本主義は、市場経済の共和制の中に独裁を作り出す君主制なのだ。それは「みんなの意見が正しいとは限らない」というリアリズムにもとづくので、快適でも道徳的でもないが、制度間競争で勝ち残ってきた。政治にもシュミット的なリアリズムが必要だろう。