今までみたように、日本社会の構造は資本主義を生んだ西洋の社会とは根本的に異なる。これは他のアジアの国も同じで、中国がそれをまねたのは日本より100年遅かった。日本はなぜ、それをいち早くまねることができたのだろうか。
その一つの原因は、日本社会の同質性にある。こう書くと「単一民族の神話」などといういう批判があるかもしれないが、日本のように言語的にも文化的にも似たような人々が地理的に隔絶された島で長期間、平和に暮らしてきた国は他にほとんど例をみない。

アメリカ大陸のように異質な人々が集まった社会では、ルール違反を防いで秩序を維持することがむずかしい。中南米では、今でも詐欺や腐敗が日常茶飯事だ。それに対して北米が経済的に成功したのは、トクヴィルがのべたように人々の対等性(equality)を人工的に維持したからだ。普通これは「平等性」と訳されるが、所得分配などの結果の平等ではなく、すべての人が法のもとに同じ権利をもつことである。

初期には人権を認められない奴隷もいたが、市民権をもつ人はすべて1人1票の選挙権をもち、財産権は法によって厳格に守られた。他方、中南米では征服した土地はすべてスペインなどの国有地になり、征服者が王から委託されて統治したので、極端な不平等が起こった。北米では、法的に人々を同質化する制度によって市民社会が成立したのだ。

それに対して日本では、日常生活の中で人々を同質化する「空気」の圧力が強いため、法律が必要ない。信用できるのは100人以内の長期的関係を記憶できる人に限られるが、タコツボ組織をつなぎ合わせれば大企業もできる。次の図は『空気の構造』(p.108)のものだが、左側は資本主義におけるプリンシパル(株主・経営者)とエージェント(労働者)の関係、右側が日本企業のタコツボ組織である。
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左側で人々を対等にしているのは契約などの非人格的ルールだが、右側では同じ会社に所属しているという長期的関係だ。左側ではプリンシパルの決定をエージェントが実行するが、右側ではエージェントが自分で決めて実行するので、プリンシパルがいない。これを私は逆エージェンシー問題と呼んだ。日本企業がいま直面している問題は、このように人間関係を固定してローカルな同質性を守る組織の限界である。

これが天皇制とも相似であることは容易に見て取れよう。丸山眞男が「まつりごと」と呼んだのも、このように最終決定者のいない構造だった。これは一見イギリスの立憲君主制と似ているが、イギリスでは最終決定者は立法府(議会)の選んだ内閣である。ところが日本では(明治憲法でも新憲法でも)国会に立法能力がなく、内閣にも権限がない。エージェント(官僚)が実質的な決定権をもつ下克上になっているのだ。

このような「官僚内閣制」は偶然や間違いでできたものではなく、古来の日本人の行動様式に適応したものだから、それを自覚しないと変えることはできない。権力の中央に「空洞」のある構造は、下部組織の参加意識が強いので、小さな意思決定を行なう柔軟性は高いが、「平時」に過剰適応した平和ボケなので、大きな意思決定ができない。

原発の運転さえ内閣が決定できない国で、靖国参拝で「愛国心」を昂揚させてみたところで、戦争はできない。憲法を改正するなら、参議院を実質的に廃止して国会の決定を一元化し、内閣の権限を強めて、明治以来の平和ボケ構造を是正することが不可欠である。