アゴラの記事の補足。ロドリックもいうようにグローバリゼーションと主権国家は矛盾するが、その敵は民主主義ではなく、資本主義である。
ネグリ=ハートが指摘したように、近代国家は国内では移動の自由を認めながら移民は認めない。ロールズ的な「一国平等主義」が偽善的なのも、格差原理の適用を国内に限っているからだ。開発援助なんかしなくても、移民の自由を無条件に認めれば、バングラデシュの飢えた人々はアメリカに行くだけでいい。
もちろん現実にはそんなことは不可能だが、近代国家は根底にそういう偽善をはらんでいるのだ。ネグリがそれを批判する概念として提起したのが、歓待の倫理である。これはデリダがレヴィナスの存在論に見出した概念で、その対義語である排除と対にして考えたほうがわかりやすい。
資本主義は、排除によって利潤を維持するシステムである。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。マルクスが社民党の「平等な分配」という考え方を強く批判したのも、来るべき「自由の国」では資源の稀少性がなくなるので、財産権を否定してすべての人を歓待すればいいと考えたからだ。
しかし稀少性はなくならないので、資本主義はつねに外部を排除して格差を作り出し、利潤を作り出す必要がある。ウォーラーステインもいうように、周辺国との格差を再生産して中核国の利潤を維持するのが世界システムである。この意味で資本主義と近代国家は最初から一体だったが、今やグローバル企業と国家の対立が顕在化している。
古来の共同体も、よそものを排除するシステムだった。村の中ではコモンズが共有されているが、外に対しては徹底して排他的なのが農村共同体の特徴だ。それをくつがえして開かれた共同体を実現したことが、キリスト教のイノベーションだった。ここでは属人的な長期的関係ではなく、神への信仰という非人格的な価値を共有することが重要だ。
だが近代化とともにコモンズは財産権で囲い込まれて他人の利用は排除され、人々に共有されていた知識もデジタル化され、符号化できない曖昧な情報は排除される。しかしデジタル技術で構築されたインターネットは、全世界のユーザーを直接つないで歓待するネットワークだ。
アメリカ人がインターネットを開発したのは偶然ではない。その不特定多数を受け入れる歓待の精神は、キリスト教がモデルなのだ。それを資本主義の排除の論理にあわせるために「知的財産権」というフィクションがつくられたが、インターネットはそれを裏切る。いま起こっているのは、グローバル資本主義とグローバルな通信ネットワークの闘いだ。
しかし日本人は、どちらにも適応できない。山岸俊男氏の分類でいえば、日本は他人をまず歓待する「信頼社会」ではなく、まず排除する「安心社会」だからである。それは日本社会の同質性を守り、ローカルな秩序を維持する上ではよかったのだが、これから必要なのは対内直接投資や移民の受け入れなどの歓待の精神ではないか。
もちろん現実にはそんなことは不可能だが、近代国家は根底にそういう偽善をはらんでいるのだ。ネグリがそれを批判する概念として提起したのが、歓待の倫理である。これはデリダがレヴィナスの存在論に見出した概念で、その対義語である排除と対にして考えたほうがわかりやすい。
資本主義は、排除によって利潤を維持するシステムである。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。マルクスが社民党の「平等な分配」という考え方を強く批判したのも、来るべき「自由の国」では資源の稀少性がなくなるので、財産権を否定してすべての人を歓待すればいいと考えたからだ。
しかし稀少性はなくならないので、資本主義はつねに外部を排除して格差を作り出し、利潤を作り出す必要がある。ウォーラーステインもいうように、周辺国との格差を再生産して中核国の利潤を維持するのが世界システムである。この意味で資本主義と近代国家は最初から一体だったが、今やグローバル企業と国家の対立が顕在化している。
古来の共同体も、よそものを排除するシステムだった。村の中ではコモンズが共有されているが、外に対しては徹底して排他的なのが農村共同体の特徴だ。それをくつがえして開かれた共同体を実現したことが、キリスト教のイノベーションだった。ここでは属人的な長期的関係ではなく、神への信仰という非人格的な価値を共有することが重要だ。
だが近代化とともにコモンズは財産権で囲い込まれて他人の利用は排除され、人々に共有されていた知識もデジタル化され、符号化できない曖昧な情報は排除される。しかしデジタル技術で構築されたインターネットは、全世界のユーザーを直接つないで歓待するネットワークだ。
アメリカ人がインターネットを開発したのは偶然ではない。その不特定多数を受け入れる歓待の精神は、キリスト教がモデルなのだ。それを資本主義の排除の論理にあわせるために「知的財産権」というフィクションがつくられたが、インターネットはそれを裏切る。いま起こっているのは、グローバル資本主義とグローバルな通信ネットワークの闘いだ。
しかし日本人は、どちらにも適応できない。山岸俊男氏の分類でいえば、日本は他人をまず歓待する「信頼社会」ではなく、まず排除する「安心社会」だからである。それは日本社会の同質性を守り、ローカルな秩序を維持する上ではよかったのだが、これから必要なのは対内直接投資や移民の受け入れなどの歓待の精神ではないか。