「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ
安倍首相の「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、み霊やすらかなれと手を合わせた」という談話を聞いて、なぜか本書を連想したのでメモ。

ここで「英霊」と呼ばれているものが実在するのかと質問するのは野暮だが、それはまったく根拠のないフィクションでもないだろう。少なくとも一部の人には、強い実在性をもつ「対象」だと思われる。本書のテーマは、こうしたオブジェクトをオッカムからドゥルーズに至る哲学者がどう考えてきたのかという問題だ。
オッカムは一般に「唯名論」と理解されているが、それは普遍の存在を認めないということではない。普遍は個物に先立つ本質ではなく、fictumだというのが彼の議論である。これは「虚偽」ではなく「知性によって構成されたもの」という意味だ。

このように普遍を記号と考え、それを支える絶対者を否定することが、近代哲学の一貫した流れだった。それがキリスト教の否定と重なることはいうまでもない。生まれたときから神のいない世界に住んでいる日本人とは違って、彼らにとって無神論とは意識的な神の否定なのだ。

オッカムの懐疑はデカルトに受け継がれ、ニーチェはそのおさらいをした。記号論はそれに科学の装いを与え、ポストモダンはそれを文学的なレトリックで飾った。すべての存在を仮象として否定したとき、残るのは純然たる無だが、これはおかしくないだろうか。もし世界が自由に生み出せる記号だとすれば、なぜ人々は明らかに実在しない英霊を信じるのだろうか。

こうした心的メカニズムを解明する作業を、著者は対抗物象化と呼ぶ。(たぶん彼が学んだ)廣松渉がのべたように物象化は「錯視」であり、その本質は間主観的な了解である。しかし問題はそれが錯視だということではなく、なぜ人々が共通の錯視を維持するのか、いいかえればオブジェクトの一義性が保たれるのかということだ。

この問題をドゥルーズもフーコーも考えていたというのが著者の見立てだが、そのくわしい議論は本書を読んでもらうとして、ここでの関心からいうと、超越的な普遍を否定する無神論は、政治的には共和制に対応する。英霊のような存在をすべて虚妄として消し去ったあとに、何が残るのだろうか。人はそういう中心のない世界に耐えられるのだろうか?

「本質の現前」を否定して、すべては意識の生み出した影だというポストモダンは、今となっては陳腐な話で、重要なのはこうしたオブジェクトがいかに構成されるかという問題である。人はこんなややこしい認識論を知らないが、つねにオブジェクトを生み出している。そしてごく一部のオブジェクトだけが、多くの人々に歳月を超えて共有される。

英霊を信じる人々は「大東亜戦争」というオブジェクトを信じ、それを否定する人々は「平和主義」というオブジェクトを信じているが、今ではどちらも疑わしい。それを構成した人々の党派性があからさまに見えているからだ。つまりオブジェクトは、それを媒介する人々が見えないときもっとも安定するのだ。

今われわれが立ち会っているのは、このような政治的オブジェクトが自明性を失い、戦後という伝統も「英霊」のような戦前も求心力を失った状況である。日本人は古来、こうした知的ファッションを自在に消費し、「古層」と併存させてきた。そして表層のファッションは消えたが、古層は(丸山眞男によれば)少なくとも1300年にわたって「執拗低音」として共有されてきた。

だから英霊というオブジェクトは安倍政権とともに消えるだろうが、日本人を包む「空気」は自明のオブジェクトとして残るだろう。それは誰が構成したかわからないほど巧妙に、われわれの生活に浸透しているからだ。それを対象化し、その構成のメカニズムを解明することが日本の社会科学の仕事だと思う。