秘密保護法騒ぎでは「メディアが国家権力と闘う」という類のお題目をよく聞かされたが、役所にぶら下がる記者クラブが、権力といつ闘ったのか教えてほしいものだ。彼らに付和雷同する学者や芸能人も含めて、日本人は国家を理解していない。スキナーがいうように、近代国家はキリスト教の陰画だからである。

しかし田川建三氏も指摘するように、日本人が一度だけキリスト教に近づいた時期がある。鎌倉仏教、特に浄土真宗である。親鸞の絶対他力の思想は、神の救済はイエスの犠牲で約束されたので絶対だとするパウロと似ている。神の摂理は人間の力では変えられないので、偶像や現世利益も否定する。日本人が超越性を信じたのは、後にも先にもこの戦乱の時代だけだった。
パウロ主義は親鸞の300年後にルターによって再現され、カルヴァンの神権政治に継承された。そこでは予定説=絶対他力の思想によって人々は神=カルヴァンの命令に従い、戦死したものは天国に召されると信じていたので勇敢に戦った。

フロムもいうように、カルヴァンは本質的にレーニンやヒトラーと同じで、宗教改革は社会主義やファシズムよりはるかに多くの戦争をもたらした。近代国家は、戦いに疲れた人々が政教分離でキリスト教を棚上げした妥協の産物である。共和制の本質は、法の支配で国家を超える超越的な権威を否定する無神論なのだ。

他方、日本では一向一揆が弾圧されたあと、絶対他力の思想は姿を消した。人々はよくも悪くも超越的な価値を信じることなく、「他力本願」の意味さえ知らない。こういう中心のない国家には、近代的な戦争はできない。その意味では、平和憲法は正しい選択だったのかもしれない。

しかしモラトリアムは、もう終わろうとしている。秘密保護法をめぐる騒ぎで「日本を戦争のできる国にするな」というスローガンが出てきたのは象徴的だ。戦争のできない国とは何なのか。ウェーバー以来の定義に従えば、国家の必要条件は暴力装置を独占することなので、戦争のできない国は国家ではない。

このように日本人が国家を理解することはむずかしい。1月からのアゴラ読書塾では近代の政治思想を読み、日本が近代国家になるにはどうすればいいかを考える。