保守とは何か (文春学藝ライブラリー)
アゴラで書いたように、デモクラシーは特殊西洋的な制度であり、日本に根づくとは思えない。それを何とか根づかせようと苦闘したのが丸山眞男を初めとする「革新陣営」だったが、福田恆存はそれを嘲笑した「保守主義者」として知られている。

しかし本書に収められた「近代の宿命」という長編エッセーを読むと、そのロジックは驚くほど丸山に似ている。西洋近代は中世の否定であり、「中世マイナス神」だった。中世まではキリスト教が秩序の維持個人の救済という二つの役割を果たしていたが、その信仰がゆらいでくると、秩序を維持する政治と個人を救済する文学の分裂が起こる。
福田はこれをトマス・アクィナス(キリスト教神学)に対するルターとエラスムスの対立として描く。ルターは新しい教会を組織してカトリックに対する闘争を始めるが、エラスムスはそれを傍観し、ルターに「曖昧主義の王様」と軽蔑される。しかし古代ギリシャ・ローマ以来の人文主義によってキリスト教を批判したエラスムスにとっては、ルターのように神を政治化するのは古来くり返されてきた愚挙だ。

もちろん現実の歴史を動かしたのはルターやカルヴァンであり、エラスムスは「最後のルネサンス知識人」として忘れられた。しかし文学に影響を与えたのは、彼やラブレーなどのキリスト教に対する風刺であり、19世紀に流行したのは神なき個人の救済としての小説だった。ドストエフスキーに典型的に見られるように、近代の小説は神との格闘だったのである。

ところがこういう否定の対象としての神をもたない日本人にとっては、政治と文学は別物になり、それを政治に吸収しようとしたプロレタリア文学が失敗したあとは、逆に個人に閉じこもる私小説が流行した。これに対する否定的評価は、福田も丸山も同じである。福田はコミュニストの全体主義に対しては個人主義を主張するが、それは西洋近代においては神と(否定的に)結びついたものだった。神なき「裸の個人」は存在しえないのだ。

しかし日本は、この無神論としての近代をいきなり輸入したので、政治は藩閥政治になり、個人は私小説的なモナドになった。社会を統合して秩序を維持するための神に代わるものが天皇だった。
近代日本ははたしてなにもどこにも見いだせぬ空虚のうちに絶望を体感したであろうか。その空虚に堪へえたであろうか。いや、けつしてさうではなかった。明治政府の指導者たちは、自分たちも、また国民も、絶対にそのような空虚に堪へられぬことを知つてゐた。天皇の神聖化とは、この空虚を埋めるためにもちだされた偶像以外のなにものでもない。(p.81、強調は引用者)
これを書いたのが丸山だといっても驚かないだろうが、これは1947年の福田の文章である。天皇を絶対化する凡百の自称保守主義者とは違い、彼は天皇は近代日本の欠落を埋めるために作り出された機械仕掛けの神だと考えていたのだ。しかしそれはキリスト教のように抽象化されず、肉体をもつ不完全な神であり、それに従属する政治も普遍性をもたない「忠孝」の倫理でしかなかった。

21世紀になって、天皇を政治利用しようとする無知なテロリストが出てくるのは皮肉である。彼にとっては天皇は手紙を渡す「偉いおじいさん」であり、神の代理としての権威も失ったのだろう。天皇がこのように世俗化してしまったとき、日本の政治はどこに向かって漂流していくのだろうか。