法と立法と自由I ハイエク全集 1-8 新版
さっきメルマガを書いていて気づいたことをちょっとメモ。

ルーカスに始まる「新しい古典派」(DSGEまで含む)のすべての理論に共通の仮定は、代表的家計が最適化を行なうことだ。これは最近のAcemogluなどではもっと極端で、明示的に計画当局が動的計画法で社会全体を最適化すると仮定しているが、彼もいうようにこれはArrow-Debreu以来の一般均衡理論とそう違うものではない。
社会全体で超過需要関数を集計して最適化しないと均衡価格は求められないので、解が存在するためにはすべての個人がロビンソン・クルーソーのような標準的個人であることが必要だ。彼が「合理的」かどうかは本質的ではなく、むしろこの合理性の条件をゆるめていろいろな「摩擦」を導入することが、ここ30年ぐらいのマクロ経済学の飯のタネだった。

しかしこの計算を行なう個人(家計)が1人しかいない(あるいは全員の効用関数が同じ)という計算可能性の条件は必須で、これをゆるめると解は求められない。この条件が任意の社会で成立するためには、合理的個人の効用関数が合理的な需要関数に集計できることが必要だが、Sonnenschein–Mantel–Debreuが証明したように、そういう集計は不可能である。社会に多くの異質な個人や市場があると、均衡は存在しないのだ。

このインプリケーションは、人々の意思を「国民主権」のような形で民主的に集計できないというGibbard–Satterthwaite定理と同じだ。つまり市場経済も民主政治も必ず失敗するのである。問題は、その失敗をどう取り返すかだ。

欧米のように個人の異質性が大きいと、それを無理やり標準化して予想可能にする装置が必要だ。それが法の支配である。法学でよく「予見可能性」が重要だといわれ、経済学では「時間整合性」が重視されるのも、そのためだ。個人の異質性を法によってカプセル化し、交換可能にすることが近代社会の前提条件なのだ。

こう考えると、日本が非西洋圏で唯一、自力で近代化できた理由がわかる。日本人はもともと同質性が高いので、代表的個人の行動を計算しやすいのだ。ここで彼らの行動を標準化する装置は法ではなく、「空気」だ。経済学でいうと、共有知識である。

この標準化装置は、「自生的秩序」として実現することはできない。ハイエクが晩年に気づいたのも、そのことだった。彼は近代社会が法によって制約される「人工的秩序」として成立する条件を考えたのだ。しかし日本では、法の支配なしに自生的に似たような秩序が実現したために、われわれは自分たちがいかに高度な計算をしているかに気づいていない。

だからグローバル化で異質な人々が入って来たり、情報の増加で「突然変異」が増えることは、日本社会の計算可能性を低下させ、最適化を不可能にする。これを避ける方法は二つしかない。異質な人々を排除するか、法によってインターフェイスを同質化するかである。どちらをとるべきかは明らかだろう。