きのう放送のニコ生でも與那覇さんと議論したことだが、日本人の「近代社会」に対するあこがれには一面的な部分があって、丸山眞男などの理想とした「自立した市民」なんて、実際には西洋にも存在しなかった。資本主義をつくったのはそういう合理的個人じゃなくて、海賊や奴隷商人だった。
・・・という歴史的事実に、日本人もようやく気づき始めた。この点をアリストテレスまでさかのぼって綿密に文献考証したのが、植村邦彦『市民社会とは何か』だが、本書はその日本社会とのかかわりについてラフに語った講演集だ。両者とも、戦後の近代主義者が理想としてきた「市民社会」なるものは幻想だったという。これはヘーゲルのつくった人工的概念で、マルクスやウェーバーがそういう理想化された市民社会をモデルにして社会や歴史を論じ、それが日本に輸入されたのだ。
・・・という歴史的事実に、日本人もようやく気づき始めた。この点をアリストテレスまでさかのぼって綿密に文献考証したのが、植村邦彦『市民社会とは何か』だが、本書はその日本社会とのかかわりについてラフに語った講演集だ。両者とも、戦後の近代主義者が理想としてきた「市民社会」なるものは幻想だったという。これはヘーゲルのつくった人工的概念で、マルクスやウェーバーがそういう理想化された市民社会をモデルにして社会や歴史を論じ、それが日本に輸入されたのだ。
そういう意味での市民社会のイメージを極端に理想化したのが、新古典派経済学である。ここでは法律も宗教も国家もなく、自己完結的な合理的個人が「効用最大化」によって等価交換の均衡状態をもたらす。こういう社会から、資本主義が生まれることはありえない。そこにはそもそも資本蓄積という概念がないから、成長しない代わりにバブルも金融危機も起こらない。
だからこんな人工的なモデルで経済を理解してきたことが近代主義の間違いだ、という本書の丸山や大塚久雄や内田義彦などへの批判は、新古典派にも当てはまる。財産権や民主主義や法の支配などの制度的インフラは、ヘーゲルと新古典派がともに信じているように市民社会の上部構造ではなく、むしろこうした統治機構が市場経済を支える土台なのだ。
スコットランド啓蒙の元祖とされるファーガソンは、「人類は安全という土台の上に彼らに適した上部構造を建設する」と述べている(『市民社会史論』)。つまり市民社会とは安全を担保する暴力装置としての国家のことなのだ。ところがヘーゲルは『法哲学』で市民社会を土台とし、その「欲望の体系」の矛盾を解決する上部構造として国家を考え、これがそのままマルクスの有名な図式に継承された。
この結果、マルクスの壮大な体系には、まったく国家が出てこない。プロレタリア革命によって土台(資本主義経済)の矛盾がなくなれば、その矛盾を解決する国家も必要なくなるはずだからである。レーニンも同じ論理で「国家の死滅」を予告したが、現実のソ連は死滅するどころか怪物的に巨大化し、その果てに自滅した。
こうした反省から、最近ではむしろ統治機構としての近代社会の特徴に注目し、それを生んだ暴力装置の構造を分析することが研究テーマになっている。ここから先はマニアックな話なので省略するが、『マキァヴェリアン・モーメント』に代表される共和主義が再評価されているらしい。
日本の文脈でいうと、伝統的な「古層」と切れたところで新古典派の「ユートピア資本主義」を提唱しても根づかない。むしろ日本の風俗習慣や「空虚な中心」に適した統治機構をつくりだす戦略が必要とされているのかもしれない。
だからこんな人工的なモデルで経済を理解してきたことが近代主義の間違いだ、という本書の丸山や大塚久雄や内田義彦などへの批判は、新古典派にも当てはまる。財産権や民主主義や法の支配などの制度的インフラは、ヘーゲルと新古典派がともに信じているように市民社会の上部構造ではなく、むしろこうした統治機構が市場経済を支える土台なのだ。
スコットランド啓蒙の元祖とされるファーガソンは、「人類は安全という土台の上に彼らに適した上部構造を建設する」と述べている(『市民社会史論』)。つまり市民社会とは安全を担保する暴力装置としての国家のことなのだ。ところがヘーゲルは『法哲学』で市民社会を土台とし、その「欲望の体系」の矛盾を解決する上部構造として国家を考え、これがそのままマルクスの有名な図式に継承された。
この結果、マルクスの壮大な体系には、まったく国家が出てこない。プロレタリア革命によって土台(資本主義経済)の矛盾がなくなれば、その矛盾を解決する国家も必要なくなるはずだからである。レーニンも同じ論理で「国家の死滅」を予告したが、現実のソ連は死滅するどころか怪物的に巨大化し、その果てに自滅した。
こうした反省から、最近ではむしろ統治機構としての近代社会の特徴に注目し、それを生んだ暴力装置の構造を分析することが研究テーマになっている。ここから先はマニアックな話なので省略するが、『マキァヴェリアン・モーメント』に代表される共和主義が再評価されているらしい。
日本の文脈でいうと、伝統的な「古層」と切れたところで新古典派の「ユートピア資本主義」を提唱しても根づかない。むしろ日本の風俗習慣や「空虚な中心」に適した統治機構をつくりだす戦略が必要とされているのかもしれない。