<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性イラクに対するブッシュ米大統領の「最後通告」は、彼の意図とは違う意味で歴史に残るだろう。それは不戦条約以来の「侵略戦争の禁止」という20世紀の戦争のルールを破り、他国の主権を公然と侵害するものだからである。

これは古典的な帝国主義とは違う。米国は領土を求めていないからだ。それを「石油利権」などの経済決定論で説明しようとする古い図式も、問題を見誤っている。いま起こっているのは、もっと大きな世界秩序の転換なのだ。

本書の原著は2001年、同時多発テロの直前に出版され、9・11以後の米国の行動を予言したことで話題になった。テロリストの容疑で投獄されている著者(ネグリ)の本が世界的ベストセラーになり、「現代の共産党宣言」などと絶賛されたのは、ほとんど一つの事件だった。

しかし、本書はむしろ現代の『資本論』といった方がよい。ちょうどマルクスが当時の哲学・経済学・社会主義を総合したように、本書は「ポストモダン」の哲学と社会科学を総合して現代の世界の壮大な見取り図を描いているからだ。

いま起こっているのは、主権国家が<帝国>というグローバルな支配権に統合される過程だ、と本書は述べる。かつて国家は、国内産業の経済活動を<インターナショナル>に仲介する役割を果たしたが、今日では企業も個人も情報ネットワークによって直接<グローバル>につながっており、国家にも、その集合体としての国際機関にも最終的な支配権はない。米国の単独行動主義は、国連が名目的な存在となった状況を象徴している。

ローマにも古代中国にも、領土の概念はなかった。世界全体が帝国の版図だったからである。皇帝の行なう戦争はつねに正しいので、自衛戦争か侵略戦争かという議論もなかった。米国の正義を疑わないブッシュ氏の行動は、ローマ帝国の「正戦論」が現代によみがえったかのようだ。

著者は帝国を批判するが、「反グローバリズム」を提唱するわけではない。彼らが帝国に対置するのは、マルチチュード(多数性=民衆)である。国家や企業によって世界を管理するための秩序としての帝国に対抗して、世界の民衆が直接に連帯する、もう一つのグローバル化がマルチチュードだ、というのだが、この議論には具体性がなく、わかりにくい。

帝国を生み出したのは情報技術だが、これについての著者の理解はお粗末だ。インターネットについての唯一の言及が「インターネットは電話の構造と似ており…」(p.348)というのでは話にならない。インターネットこそ、マルチチュードのモデルなのだ。

本書のテーマもマルクス並みに大きいため、議論は粗っぽく、残された問題も多い。しかし、すぐれた古典がそうであるように、本書が提出したのは答ではなく、帝国という問題である。『資本論』が共産主義者にとっても資本家にとっても必読書となったように、本書を読まずに21世紀の社会科学は語れないだろう。