Darwin's Cathedral: Evolution, Religion, and the Nature of Society日本が陥っているのは安倍首相が信じているような「デフレ不況」ではなく、慢性的な停滞である。その原因は高度成長期から続いてきた日本型システムで達成可能な労働生産性の天井(アメリカの75%)にぶつかったからで、これを解決するために必要なのはマクロ政策ではなく組織や意思決定の革新である。

これは狭義の経済学を超える大きな問題だが、その一つの手がかりは宗教にある。山本七平は「日本教」の特徴はキリスト教のような普遍的な体系をもたず、村ごとの御神体の臨在感的把握によって人々が動くことだと指摘した。これはマルクス的にいうと「物神化」であり、人類にきわめて普遍的な現象だ。

本書はこうした信じるという機能を生物学的に分析したものだ。それは自明ではなく、類人猿にはものを信じる行動はみられない。人間でも4歳児にならないとみられず、自閉症の患者には欠けているので、人間関係を調整するための心的メカニズムと考えられる。これを著者は集団淘汰の理論で説明する。

飢えと戦争のリスクに直面する人々が集団として生き残るための淘汰圧はきわめて強かったので、個人を犠牲にしても集団を守る感情が進化した。その一つはフリーライダーを憎む感情だが、もう一つは同じものを信じる感情である。たとえば言葉の音素とその意味の間には必然的な関係はないが、その意味をいちいち合理的に決めていてはコミュニケーションは成り立たないので、暗黙知を共有する能力が円滑な人間関係の条件だ。

特に紛争を解決するためには規範の共有が必要だが、それは自明ではない。たとえば「他人の物を盗むな」というモラルは個人的には不合理だが、それを人々が信じないと社会が崩壊する。こういうモラルをenforceするために、超自然的な実体を人々が信じて「神様の罰が当たる」と信じることが必要になる。こうした信仰をもたない「合理的個人」からなる個体群は、とっくに滅亡しただろう。

このように宗教的な権威は集団を統合する装置なので、共同体の中では同一だが他の共同体とは異なり、紛争が起こる。それを解決して「大きな社会」を統合するためには、ローカルな共同体を超える規範が必要だ。それがキリスト教、特にカルヴィニズムのもたらした革新だった、というのが本書の主要な主張である。

ローカルな御神体の「臨在感」に依拠しているかぎり、普遍的な宗教にはなりえない。このためキリスト教は偶像崇拝を厳禁したが、カトリック教会は堕落して世俗的な権威になった。カルヴィニズムはカトリック教会の権威も否定して、神以外の価値をすべて拒否した。これによってキリスト教は、ローカルな価値の違いを超えた抽象的な観念のみに依拠する世界的なsuperorganismを実現したのだ。

カルヴィニズムのこうした普遍主義は、ヨーロッパ全域で数百年にわたって繰り返された戦争の中で進化してきたもので、他の文化圏には容易にまねられない。そもそも文化の違いを超えた普遍的な価値が存在するというのも信仰の一つにすぎない。西洋型システムが集団淘汰の勝者であることは明らかだが、ローカルな臨在感で生きてきた日本人がそれに適応するには、まだ数十年はかかるのではなかろうか。