近代化と世間 (朝日新書)アマゾンの日本のキンドルストアで初めて買った本。ダウンロードしようとすると「登録してください」というメッセージが出るが、登録というメニューがないので、どうしていいかわからない。いろいろ試行錯誤した末に、なんとAmazon.comで「アカウントの結合」が必要だということがわかる。このへんの説明が非常に混乱している。

それはともかく、本書は「世間」というテーマを追究した中世史の大家の絶筆で、丸山眞男の「歴史意識の『古層』」との関連を論じている。驚いたことに、丸山が「なる」の起源を求めた記紀神話の中に「世間」という言葉が出てくるという。日本人の古層にある「なりゆき」も「いきほひ」も、すべて互いに知っている世間の中の出来事なのだ。

こういう歴史意識は丸山のいうほど特殊なものではなく、ヨーロッパでさえ中世までは個人という概念はなく、人々は狭い世間の中で身を寄せ合って生きていた。著者の関心は、逆に「個人」という不自然な概念がどうして近代ヨーロッパに成立したのかという問題で、その答はキリスト教の告解の生み出したものだということだ(これはフーコーも言っている)。

歴史に「目的」があり、世界は神の決めた運命に従って「進歩」しているという時間意識は、ユダヤ=キリスト教圏(イスラム教を含む)以外にはみられない特殊なもので、科学では否定されている。むしろ歴史には目的なんかなく「永遠の今」の中でなりゆきにまかせて「進化」するという日本人の時間意識のほうが科学的だ。

しかし日本人も狭い世間の中だけでは生きていけない。タコツボ同士が接するとき、両者を統合する「大きな社会」の記号として天皇が生まれるが、それは世間の自律性を決して侵してはならない。この二律背反を解決するために、田中真紀子事件にみられるように、最高権力者に意思決定させない「まつりごと」の構造が生まれた。

この奇妙な構造が1000年以上にわたって受け継がれてきたのは驚異的だが、それは世間の中の「空気」を共有する者どうしの約束であって、田中氏のようなアウトサイダーには通じない。マスコミは彼女を批判しているが、おかしいのは大臣が裁量権を発揮することを「世間」が許さない設置審査の手続きなのだ。

本来は大きな意思決定を内閣が行なってから各省の官僚がそれに従うべきなのだが、政治家も官僚も「まつりごと」方式に慣れきっているので、大きな方向転換ができない。それが民主党の「政治主導」が失敗した原因だが、自民党政権に戻ると「世間」の求心力は一段と強くなるだろう。日本社会が行き詰まっている根本的な原因は、こうした意思決定のゆがみにあるが、それに気づいている人はほとんどいない。