ハイデガー拾い読み (新潮文庫)ここ1年ぐらい、いろいろな日本人論を読んで驚いたのは、ほとんど同じ特徴をさまざまな表現で論じていることだ。「タテ社会」論のころから変わらない日本社会の最大の特徴は、タコツボ的な小集団の求心力が強くて中心がなく、無原則な「空気」で動くことだ。しかしこの奇妙な特徴がなぜ生まれたのかについては、誰も系統的に論じていない。それはおそらく、個別の文化論を超えた問題なのだろう。

本書はハイデガーの存在論をめぐるエッセー集だが、1ヶ所だけ丸山眞男の「古層」論にふれている(pp.151~2)。これは著者が『反哲学入門』で論じたのと同じで、ハイデガーはプラトン以来の西洋哲学が世界を人間のつくる存在と考え、自然を知性によって克服すべき物質的存在と見たことを批判し、ソフィストの自然観をこのように再評価した。
ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌え上がり現われ出てき、またおのれへと還帰し消え去っていくもの、そのように現われ出てはまたおのれへと還帰していきながら場を占めているものなのである。(ハイデガー『ニーチェⅠ』p.117)
これは丸山のいう日本古来のなる世界観に近い。そこには目的も設計もなく、なりゆきにまかせて世界は「創発」される。同じことは宇野邦一氏もドゥルーズ=ガタリに関して論じている。『千のプラトー』で彼らが近代社会のツリー構造に対するアンチテーゼとして出したリゾームは国家を拒否する自生的秩序だが、中心も構造もない日本社会そのものだ。

若き丸山は、このような行動様式を「封建的残滓」と考え、そういうプレモダンの思考を乗り超える作為の思想を荻生徂徠に読み込んだのだが、晩年の彼は「古層」をポストモダン的なニヒリズムと見るようになった。それはバロック音楽の執拗低音のように、主旋律と混じり合いながらそれとは別の音型として、現代の日本社会にも継承されている。それを丸山は「未開社会の心性」だと示唆している。

これをカーネマンのモデルでいうと、日本人はシステム1で思考する部分が多く、西洋人は主としてシステム2で思考すると整理できよう。これはどっちがいい悪いということはなく、前者は高速でエネルギー消費が少ないが、後者は柔軟で目的合理的だ。人類の歴史の大部分では前者が行動のほとんどを占め、今でも思考の80%はシステム1で行なわれている。

ハイデガーはシステム2を偏重する西洋の「現前の形而上学」を批判したが、丸山はシステム1に依存する日本の政治を批判した。両者は対極の地点から出発しながら、晩年には交わっていたようにも見える。それは現代に受け継がれる「野生の思考」を追究したレヴィ=ストロースにも通じるテーマだろう。