原子力をめぐる議論で気づいたのは、人々が「電力会社は悪い奴だ」という話に強く反応することだ。たとえばTVタックルで「サハリンから天然ガスのパイプラインを引く計画があったがつぶされた」と話すと、大竹まことさんが「誰がつぶしたのか」と質問し、私が「電力会社だ」と答えると、阿川佐和子さんが「なぜつぶしたんですか」と質問し、「パイプラインから企業がガスを引くと電力会社の顧客が減るから」と答えると、「やっぱり電力会社は悪い」という話で盛り上がった。

このような応報感情は、すべての文化圏にみられる。水戸黄門から「24」に至るまで、ほとんどの大衆ドラマは勧善懲悪だといってもいいので、それは非常に強い感情だと思われる。その進化的な理由は、ゲーム理論で説明できる。

多人数の囚人のジレンマを考えると、他人がものを盗まれたとき、その犯人をつかまえようとすると犯人は反撃して私に襲いかかるかもしれないが、放置しても損するのは他人だから、事後的には見て見ぬふりをするのが合理的だ。したがって犯罪は放置することがナッシュ均衡になるが、すべての人々が合理的に行動することが事前にわかっていると泥棒は盗み放題になり、社会は崩壊するだろう。

ポズナーも指摘するように、このように事前には望ましい報復が事後的には合理的ではないという時間非整合性が社会秩序の根本問題で、こういうとき必要なのは合理的に行動しないというコミットメントである。たとえばベームが示しているように、優秀なハンターでも獲物を隠したら憎む応報感情が社会の存続にとって重要で、これは遺伝子レベルに埋め込まれていると考えられる。それが世界のどこでも勧善懲悪のドラマが好まれる原因だ。

これは行動経済学の実験でも確かめられている。新古典派経済学の想定しているような、他人の迷惑を考えないで自分の利益を最大化する自己愛(self-regard)は、世界のどの文化圏にもみられない。もっとも強い感情は、協力する相手には協力し、裏切る者は(自分と無関係でも)必ず処罰するという強い互酬性(strong reciprocity)である。

だから人々が電力会社や原子力村を憎むのは自然な感情であり、それを利用してリスク管理を感情問題にすり替え、電力会社が「停電テロ」を仕掛けているなどと憎悪をあおる古賀茂明氏は、大衆の原始的な感情に迎合するアジテーターである。こういう連中にいつまでだまされるのかが、日本人の知性をはかる試金石だろう。