政党と官僚の近代―日本における立憲統治構造の相克「脱官僚依存」の人事として民間から起用された丹羽中国大使が更迭されることが決まった。本人の軽率な言動にも問題はあるが、彼を抜擢した民主党が守ろうとせず、ハシゴをはずしたのをみると、今後は民間から政治任用しようとしても、なり手はいないだろう。

行政改革というと、天下りや「無駄の削減」ばかり話題になるが、コアの問題は公務員制度である。民主党の「政治主導」が失敗した原因も、人事制度を変えないで政務三役だけが乗り込んで、官僚のサボタージュで孤立してしまったためだ。政権交代直後の勢いのあるうちに、公務員制度や国家戦略局などの組織改革を一挙にやるべきだったのに、バラマキ予算にのめりこんで失敗した(松井孝治氏も反省している)。

人事制度は明治時代から政党と官僚の権力闘争の争点だった。本書はその人事抗争の歴史を詳細にたどったもので、特に幹部公務員の政治任用が最大の焦点だった。1899年に山県有朋が文官任用令を改正して政治任用を禁止したあとも、大正デモクラシーの中で政党が政治任用を拡大し、それに対して官僚が「猟官運動による腐敗のもとになる」として縮小する、という繰り返しだった。

特に各省の次官を政治家がやるか官僚がやるかが大きな争点で、政官の妥協の結果、政務次官と事務次官の並立する変則的な制度ができたが、実質的な権限は事務次官に集中した。官僚の中心は枢密院と法制局で、特に法制局は各省庁が法案を提出する前に必ずチェックを受けなければならないため、政府の調整機能を果たしていた。戦前は法制局長官は政治任用だったが、戦後はこれも事務官になり、完全に官僚主導になった。

法制局の参事官は穂積八束や美濃部達吉など東大法学部の重鎮で、彼らが学問的整合性を厳密にチェックしたことが、日本の法律の極端に相互依存的なアーキテクチャの原因らしい。他方で各省を統括する首相の権限は弱く、軍部が政治から独立していたため、政党は軍部を利用しようとして主戦論をエスカレートさせ、逆に政治が軍部に乗っ取られてしまった。

戦後、GHQは職階法で公務員制度をアメリカ型に変えて全面的に政治任用を導入しようとしたが、さすがにこれは無理で、官僚が職階法を換骨奪胎したため、かえって山県のつくった官僚主導のレジームに戻ってしまった。その後の自民党政権は、政策立案を官僚に丸投げする楽なシステムに慣れ、族議員が各省庁に寄生するシステムが定着した。

この山県レジームを変えることは、明治以来の法律のアーキテクチャを変える改革と一体なので、憲法改正よりむずかしい。この統治機構はGHQでも変えられなかったので、平時に変えることは絶望的だ。法制度を英米型に変えるのは無理なので、せめて内閣の求心力を強め、政治任用を増やして大陸型に変えたほうがいいと思うが、自民党が政権に戻ると、また山県レジームに回帰するおそれが強い。