日本の政治がグダグダになっている原因を「民主主義の不足」に求めて「ネットで直接民主主義」とか「官邸デモで政治を変えよう」などというのはナンセンスだ。ある意味で、日本は古来から非常に民主的な国であり、むしろ民主主義の過剰が「非決定」をもたらしているからである。

この点を丸山眞男は論文「政事の構造」や講義で論じている。そのキーワードは、まつりごとである。これを漢字で「政」と書くため、古代の日本では祭政一致だったという俗説があるが、日本では祭祀と政治は古代から明確に分離されていた。記紀では「まつる」の主語は天皇ではなく、その派遣したヤマトタケルやオホビコノミコトなどの皇子であり、彼らは天皇に職務を委任されて奉仕する(まつる)。つまり日本では政治とは、臣下が天皇に奉仕することなのだ。

これは皇帝が権力を独占して国家を支配する中国の政治とは違い、法によって政府が統治するgovernmentとも違う。ここでは「まつられる」だけで実質的な政治を行なわない天皇と、それをまつり上げて意思決定を行なう実務者が分化し、政治は天皇が国をしらすとかきこしめすといった言葉で語られる。これは「知る」とか「聞く」の尊敬語で、天皇は国家を支配するのではなく、受動的に天下の出来事を知り、聞く存在とされている。

このように正統性の源泉と意思決定する主体の分化した二重統治は、古くは魏志倭人伝の伝える卑弥呼にもみられ、律令制度のもとでも摂政・関白などの「令外の官」が実質的な権力者となり、武士が実権を握ってからも天皇に委任された「将軍」という形式をとった。その実務はさらに執権や老中などに委任され、責任と意思決定が一致しない構造がさまざまなレベルに見られる。

現在の政治でも、日本の国会は立法府としての機能を果たしておらず、実質的な意思決定を行なうのは官僚機構である。官僚は政治家をまつり上げて「先生」と呼ぶが、実権は自分たちにあることを知っている。それを知らないで「政治主導」でやろうとした民主党は、霞ヶ関のボイコットで粉々になってしまった。

同様の構造は、私的な集団にもみられる。丸山のあげている例でいえば、本願寺の法主と執事、財閥の三井家と番頭、そして現代の日本企業でいえば株主と経営者の関係がその典型だろう。そこでは株主は形式的には最高権力をもっているにもかかわらず、実質的な意思決定は役員会で行なわれ、従業員共同体を守ることが最高の使命とされる。

なぜこのような特殊な構造が2000年近く続いているのかについては丸山は何も語っていないが、国家権力と象徴的権威の分離による集中排除が平和の維持に役立ったことは間違いない。意思決定の主体が変わっても正統性の源泉がつねに天皇にある構造のもとでは、権力と権威と財力を集中的にもつ勢力が国家を転覆する「革命」は成功しない。

つまり日本社会に遍在するボトムアップの「民主的」な構造は、権力を分散して互いに牽制させ、責任を曖昧にしてstatus quoを維持する平和のテクノロジーなのだ。それはハブになる形式的中心を変えないで変化に対応できる柔軟性をそなえているが、それを支えるのは法的ルールではなく関係者の暗黙の合意なので、異質なメンバーが交錯する社会では意思決定が麻痺してしまう。

橋下徹氏が大阪で実験しているのは、このように首長がまつり上げられる構造の否定である。「部下のいうことだけやるなら、市長なんて式典のテープカットだけやってたらいいんだから簡単ですよ」と彼はいう。市長が保育園から文楽まで口を出し、敵対する労組を排除する彼の手法は、民主政治というより東洋的な人治政治であり、彼のキャラクターに依存している点で危うさが残るが、多くの国民がそれに拍手を送るのは、何も決めない「まつりごと」にうんざりしてきたからではないか。