フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治 (ちくま学芸文庫)
社会を根底で支える「下部構造」は、経済的利害ではなく権力による暴力の管理だと考えた先駆は、ミシェル・フーコーだろう。特に重要なのは、彼が「空白の8年間」と呼ばれる(早すぎた)晩年に残した講義である。そこでは『監獄の誕生』の中心となったパノプティコンの概念を否定し、統治性という概念が展開されている。

フーコーが西洋的世界の権力の原型と考えたのは、司牧的権力である。これはキリスト教会に代表されるように、「牧師」としての聖職者が迷える羊のような民衆を導くもので、伝統的社会にもよくみられる。ここでは権力の基盤は法や暴力ではなく聖職者の「善行」であり、彼らは属人的な施しによって民衆を指導する。
司牧的権力は特定の社会の規範を根拠とするので、他の社会との交流が増えると拘束力がが弱まる。特に西洋ではカトリックに反抗するルター派の勢力が大きくなり、彼らは司牧への服従を拒否し、自由な個人に依拠してカトリック教会を批判した。これは権力を全面的に否定するものではなく、抽象的な権力と普遍的なルールで民衆を管理する技術であり、これをフーコーは統治性と呼ぶ。

司牧的権力には臣民(subject)として隷属していた人々が、近代国家では自立した主体(subject)となり、統治の効率は飛躍的に高まる。かつてはいちいち指導しなくてはいけなかった民衆が、法の支配に従って「自己責任」で行動するからだ。ここでは彼らは武装する市民として自発的に戦争に参加し、国家の大義のために命を捧げる。

こうした市民は経済的な取引に対する国家の干渉をきらい、自由貿易を求める。その結果、イギリスで成立した市場経済は、実は究極の生政治だった。ここでは国家は背景に退いているが、資本家の富の源泉は植民地から国家が収奪したものであり、彼らの財産権は国家によって厳重に保護されている。「自由な主体」とは、国家によって徹底的に管理され、標準化されたルールに例外なく拘束される「普遍的な臣民」なのだ。

したがって近代西洋の国家は歴史上もっとも「大きな政府」であり、その国民経済に占める比重はますます大きくなっている。その中核にある管理装置は善意や道徳ではなく、内政(police)である。これは古代ギリシャのような「公共空間」ではなく民衆を規制する技術で、その目的は国力を増強して他国との軍事的均衡を守ることである。

経済学は、このような統治性(ガバナンス)を効率的に実現する技術であり、そこでは「ホモ・エコノミクス」の行動は彼が合理的に選択した結果だから、国家は責任を負わない。国家の目的は戦力となる人口と富の最大化だから、個人の所得の不平等には関心をもたない。そこでは統治性は最大化されると同時に最小化され、人々の意識から隠されるのだ。

日本は20世紀になっても、伝統的な司牧的権力に似た「やさしい社会」を維持してきたが、これからは好むと好まざるとにかかわらず、「自立した個人」による効率的な統治性に転換せざるをえない。それは「弱い政府」ではなく、政府が裸の個人を実定法で拘束する「強い政府」なのだ。大阪で起こっている変化は、よくも悪くもそういう日本の未来を垣間見せている。