意味の深みへ: 東洋哲学の水位 (岩波文庫 青 185-4)
ハイデガーのいう「惑星的思考」のできる日本人は数少ないが、井筒俊彦はその一人だった。本書もシーア派イスラムからジャック・デリダまで縦断するエッセイ集だが、そこには一つのモチーフがある。人類に普遍的な文化はあるのかということだ。

遺伝的な「普遍文法」を追求したチョムスキーがたどりついたのは、ほとんど中身のないミニマリスト理論だった。地球上の7000余の言語には(同じ起源から派生したものを除いて)文法にも語彙にもまったく共通性がない。言語は異文化の共約不可能性を示しているのだ。

しかし言語哲学には普遍性がある。世界を言葉による差異の体系とみる思想は、西洋では20世紀にソシュールが提唱したが、東洋には昔からあった。荘子は「言葉にしなければ万物に区別はないが、言葉にした途端に別々の物になる」といい、老子はこれを木にたとえた。森の中の木には名がないが、それを加工すると柱や器という名がついて存在する。

そういう論理を徹底的に追究した仏教の中観派は、言葉に対応するのは「空」だという。それに対して唯識派は、言葉より深い層に主体と客体の不可分なアラヤ識があると考えた。これはフロイトのような個人的な無意識ではなく、共同体の中で歴史的に共有される暗黙知である。

これを著者は「言語アラヤ識」と呼び、ロゴスを超える深層構造と考える。それは多くの人々の経験の蓄積なので共約不可能だが、その構造には普遍性があるかもしれない。生成AIが発見したのも、そういうビッグデータの数学的構造は多くの言語に共通だということだった。

ロゴス中心主義の呪縛

この問題は、別のエッセイで論じているデリダとも結びつく。彼が強調した「言語には差異しか存在しない」という思想は、東洋では2000年ぐらい前に発見されていたものであり、その意味では普遍性をもつ。

ただ西洋では、ユダヤ的伝統でもギリシャ的伝統でもロゴス中心主義が強かったため、神(ロゴス)の存在を疑う人々は異端として排除されてきた。それが19世紀末のニーチェ以降、ようやく大乗仏教のレベルに追いついたわけだが、その差はまだ大きい。

合理的な契約が資本主義を生み、数学が近代科学を生んだ。西洋文明の比類ない成功をもたらしたロゴス中心主義の呪縛は強い。デリダのように「本質の現前」を疑う思想は、ポストモダンの言語遊戯でしかなく、ロゴス中心主義を脱構築しようとする彼の試みはほとんど理解されなかった。

しかし生成AIは、言語を生み出すのが論理や文法ではなく、その深層にある意味的な相関関係であることを示した。チョムスキーの生成文法はビッグデータに吸収され、意味論とか統辞論とかいう区別にも意味がなくなるだろう。人間が文法を知らなくても話せるように、チャットGPTも膨大な経験の蓄積だけで人間をまねているのだ。

表層的なレベルでは、日本語と英語の翻訳は、人間と見分けがつかないレベルまで向上した。人工知能の限界とされたフレーム問題や記号接地問題も、解決したとはいえないが、腕力で問題にならないレベルまで抑え込んだ。それによって深層構造(言語アラヤ識)の普遍性が明らかになれば、異文化の本質的な理解も可能になるかもしれない。