政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで
経済学は「社会科学の女王」と呼ばれることがある。これは見かけを数学で飾って科学的に見えるだけでなく、経済的な土台が上部構造を規定するというマルクスの図式がいまだに多くの社会科学者に受け入れられているからだろう。その元祖は「市民社会が国家を生み出す」というヘーゲル法哲学だが、最近はこのヘーゲル=マルクス以来の図式を疑う議論が多い。

本書はこうした問題意識を明示し、政治学を中心にして社会科学を再構成しようという野心的な試みだ。著者の出世作『歴史の終わり』は、冷戦の終了とともに西洋的な自由経済と民主主義が究極的な勝利を収めて歴史が終わる、という露骨な自民族中心主義だったが、本書はその逆に中国をベンチマークにして国家の歴史をたどっている。

著者によれば史上最初のmodern stateは、紀元前3世紀の秦である。550年に及ぶ春秋戦国時代の戦乱に終止符を打ち、世界最初の中央集権国家を建設したのが秦の始皇帝だった。それはローカルな部族社会や都市国家の城壁を破壊し、「郡県制」で統治する最初の国家であり、西洋で同じような国家ができたのは18世紀後半だった。この意味で政治と経済をワンセットにした「近代」という言葉はミスリーディングである。

ヘーゲル以来の図式とは逆に、政治的に安定した国家が建設されない限り経済も安定しない。原初の部族社会では、人々は絶え間なく戦争をくり返していたからだ。戦争を抑止する装置としての国家によって、初めて経済成長は可能になったのだ。この点で、本書はLeBlancNorth-Wallis-WeingastGatなどの最近の歴史学の成果を踏まえている。

しかし国家は、むき出しの暴力だけでは維持できない。秦では皇帝が中国全体の統治者となり、集権的な軍と官僚制と全国的な徴税制度をもっていたが、それを正統化する精神的権威を欠いていた。万里の長城などの巨大土木工事が民衆の負担になり、始皇帝が解体した地方豪族の不満も強かったため、彼が死去するとまた内乱が起こり、秦はわずか14年で滅亡した。

同じような国家が西洋に生まれたのも、戦争が原因だった。ヨーロッパでは、ローマ帝国が崩壊してからというもの「平和とはごく稀な現象でしかなかった」(ハワード)。特に中世末期から各地で続いた戦争で伝統的な部族社会は完全に破壊され、多様な民族が領土や宗教をめぐって互いに戦う状況が400年以上つづいたが、中国のような統一国家はできなかった。

ヨーロッパで皇帝の代わりに全域を統一したのは、キリスト教だった。ここでは中国とは逆に軍事的な混乱が続く一方で、キリスト教の精神的権威はヨーロッパ全域で高まり、ローカルな政治権力を超えた普遍的な教会法が法の支配のモデルとなった。ヨーロッパの封建制は中国とは異なって領主と農民の契約による法的支配であり、その契約の正統性を支えたのがキリスト教の権威だった。教会は株式会社などの近代的組織のモデルともなった。

西洋で近代国家ができたのは中国より2000年近く遅かったが、それはよくも悪くも中国のような中央集権国家を欠き、各国の軍事力の均衡で秩序を維持するシステムだった。近代国家ができてからも戦争は絶え間なく続き、こうした制度間競争を通じて権力者が法律に従う法の支配が確立した。それが人々の流動性を高め、技術的・制度的なイノベーションを促進して、大分岐が起こったのである。

本書は最近の「グローバル・ヒストリー」のまとめだが、印象的なのは中国のように部族社会が統合されて中央集権国家が形成されるのが普通で、西洋は特殊だとしていることだ。本書はインドやイスラムやオスマンの歴史も簡単にみているが、ここでも部族社会が中央集権的な帝国に統一される。西洋のように何百年も戦争が続いたことが異常で、それが「軍事国家」としての主権国家を生み出した、という本書の結論は多くの実証研究と一致している。