過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)
本書は2007年にアスキー新書で出した『過剰と破壊の経済学』の内容を2012年にアップデートした電子書籍(PDF)である。きょうのアゴラ経済塾のテキストに使うが、基本的な考え方は今でも通用すると思うので、ちょっと紹介しておく。

はじめに

現代では、だれもコンピュータなしで暮らすことはできない――というと、「私はコンピュータなんかさわったこともない」という人もいるだろう。しかし日本の携帯電話の契約数は 1 億台を突破し、ほぼ1人に1台がもっている。その中には通信などの機能をつかさどるシステム LSI (大規模集積回路)が入っており、これは数センチ角の小さな半導体だが、 CPU (中央演算装置)やメモリをそなえた、立派なコンピュータである。

この携帯電話用 LSI に集積されているトランジスタの数は、最新機種では 8800 万個にのぼる。これは、 1955 年に IBM がトランジスタを使って最初に開発した大型コンピュータに使われたトランジスタ数、 2200 個の 4 万倍である。かつてはコンピュータ・センターを占拠していた巨大なコンピュータの 4 万倍の機能が、あなたの持つ携帯電話に入っているわけだ。

このように、ここ半世紀ほどの間にコンピュータ産業で起きた変化は、だれにも予想できない急速なものだった。かつて IBM の創立者トーマス・ワトソンは「コンピュータの世界市場は 5 台ぐらいだろう」と予想したが、いま世界にあるコンピュータの数は 5 億台を超えている。携帯電話や家電などに埋め込まれたマイクロチップを含めれば、数百億個のコンピュータが世界中にある。

この変化は、 1990 年代から特に加速したようにみえる。その原因はインタ ーネットの普及である。インターネットそのものは 1970 年代からあったが、主として大学や研究所のミニコンピュータで使われていた。それが 80 年代から始まったパソコンの普及とあいまって一般家庭でも使われるようになり、 1990 年代から急速な広がりを見せ始めたのである。少なくとも先進国では、すべての人がコンピュータとネットワークでつながる時代が、現実になろうとしている。この尋常ではない変化のスピードの原因は何だろうか?

半導体の進歩がすべてを変えた

20 世紀の重要な発明としては自動車やテレビがあるが、自動車の馬力が何万倍に上がったとか、価格が 何万分の 1 になったという話は聞かない。テレビは、その誕生以来まったく変わっていない。「デジタル放送」が始まっているが、それは後にみるように、情報技術の進化から横道にそれた、袋小路の技術だ。コンピュータだけが、桁外れのスピードで進歩し続け、しかも次々に新しいイノベーションを生み出している。

しかし急速に変化するコンピュータの世界で、 40 年以上変わらない事実がある。半導体の集積度は18 ヶ月で 2 倍になるという経験則である。インテルの創業者ゴードン・ムーアが 1965 年に提唱したこの法則は、もちろん自然法則では ないので、理論的必然性があるわけでもないし、それがいつまでも続く保証はないが、この 40 年以上、半導体の性能はムーアの予想どおり上がり続けている。

このように指数関数的な技術進歩が 40 年以上も続いたことは、技術の歴史に例をみない。そのもたらす変化は、産業構造や経済システムまで変える深いものだ。それは必ずしも「ユビキタス」とかいうバラ色の未来像ではなく、多くの企業がこの法則を利用して急成長する一方、さらに多くの企業がこの法則の破壊力を見誤って消えていった。

この法則は、あと10~15年は続くと予想され、関連 する技術も同じように急速にコストが低下している。あらゆる情報がデジタル化される原因は、ムーアの法則によって情報処理コストが急速に低下しているからだ。したがって、この法則が何をもたらすかを考えれば、予想しにくい情報産業の未来を予想することも不可能ではない。

そして情報産業は今や全産業の中核だから、これによって経済がどう変わるかを予測することも、ある程度はできるかもしれない。ムーアの法則は、先の見えない情報社会の未来を映す、たった一つの「水晶球」なのである。