戦後最大の思想家というと、団塊の世代には吉本隆明をあげる人も多いが、彼は戦後最悪の思想家に近い。60年安保のころから暴力革命を煽動したが、70年安保のときはブント叛旗派というマイナーな党派の指導者で影響力はなかった。今や「吉本ばななの父」といったほうが通りがよいだろう。
吉本は詩人であり、語学ができないので哲学を系統的に学んだわけではないが、文章は詩的で洗練されている。意味のわからない表現も多いが、それが魅力になっている。なんとなく気分で書き、本人もわかっていないことをレトリックで飾っているだけだ。詩の意味が全部わかる必要はない。
ミシェル・フーコーは「フランスで偉大な思想家と思われるためには10%ぐらい意味不明の表現がないといけない」と言ったそうだが、吉本の文章もそんな感じである。安原顕がフーコーとの往復書簡を企画したら、吉本の手紙を読んだフーコーから「何をいっているのかわからない。吉本はヘーゲルをちゃんと読んだのか」と返事がきたらしい。
本書もマルクスの経済決定論を否定する独創的な国家論として評価されたが、国家が「共同幻想」だというのは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で論じたテーマである。ところがいくら読んでもナポレオン3世は出てこない。なんと吉本は『ブリュメール』を読んでいなかったのだ。
『言語にとって美とは何か』は、ソシュールの言語論を評価した先駆だが、『一般言語学講義』を悪い訳本で読んだので、その理解がめちゃくちゃだ。「海という言葉は、だれかが昔、海を見て『う』といったからできたのだろう」などという記述が、言語を2項対立として分析したソシュール論に出てくるのは唖然とした。
吉本は、ある意味では本居宣長以来の日本の思想家の典型である。日本では学問としての哲学が育たなかったために、文芸評論家や作家と哲学者が未分化で、小林秀雄や亀井勝一郎のような美文家が大思想家と勘違いされる。
他方で大学の哲学科の教授は、西洋の哲学者の微細な訓詁学で一生を終える。文献学を踏まえながら独自の思想を語ったのは、やはり廣松ぐらいしか思い当たらない。哲学は、日本人には向いていないのだろう。
吉本は詩人であり、語学ができないので哲学を系統的に学んだわけではないが、文章は詩的で洗練されている。意味のわからない表現も多いが、それが魅力になっている。なんとなく気分で書き、本人もわかっていないことをレトリックで飾っているだけだ。詩の意味が全部わかる必要はない。
ミシェル・フーコーは「フランスで偉大な思想家と思われるためには10%ぐらい意味不明の表現がないといけない」と言ったそうだが、吉本の文章もそんな感じである。安原顕がフーコーとの往復書簡を企画したら、吉本の手紙を読んだフーコーから「何をいっているのかわからない。吉本はヘーゲルをちゃんと読んだのか」と返事がきたらしい。
本書もマルクスの経済決定論を否定する独創的な国家論として評価されたが、国家が「共同幻想」だというのは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で論じたテーマである。ところがいくら読んでもナポレオン3世は出てこない。なんと吉本は『ブリュメール』を読んでいなかったのだ。
無学な夜郎自大の生む詩的な魅力
吉本を高く評価する哲学者はほとんどいないが、上山春平は「吉本は無学だが名文、廣松渉は博学だが悪文だ。あの2人を合わせたら、偉大な哲学者になるのに」と言っていた。マルクスと同じことを独力で思いついたとすれば大したものだが、基本的な文献も読まないで、自分の独創と信じて書く夜郎自大に、吉本の不思議な説得力がある。『言語にとって美とは何か』は、ソシュールの言語論を評価した先駆だが、『一般言語学講義』を悪い訳本で読んだので、その理解がめちゃくちゃだ。「海という言葉は、だれかが昔、海を見て『う』といったからできたのだろう」などという記述が、言語を2項対立として分析したソシュール論に出てくるのは唖然とした。
吉本は、ある意味では本居宣長以来の日本の思想家の典型である。日本では学問としての哲学が育たなかったために、文芸評論家や作家と哲学者が未分化で、小林秀雄や亀井勝一郎のような美文家が大思想家と勘違いされる。
他方で大学の哲学科の教授は、西洋の哲学者の微細な訓詁学で一生を終える。文献学を踏まえながら独自の思想を語ったのは、やはり廣松ぐらいしか思い当たらない。哲学は、日本人には向いていないのだろう。