原発事故のあと反原発運動が盛り上がるのはどこの国でも同じだが、日本の特徴は「子供を守る母親の心」とか「金より命を大事にする」といった心情的なスローガンが多いことだ。その典型が、今や反原発運動のアイコンとなった山本太郎である。
彼の著書は「脱原発で仕事を干された」といった自分の話ばかりで、低線量被曝のリスクなどの事実には関心がない。原発は無限に危険で放射能はゼロにすべきなのだから、そのリスクなんてどうでもいいのだ。これは「放射線のリスクはわからないが原発が危険だということだけはわかる」と主張する安富歩氏と同じだが、山本のほうが余計な理屈がないだけわかりやすい。
彼の著書は「脱原発で仕事を干された」といった自分の話ばかりで、低線量被曝のリスクなどの事実には関心がない。原発は無限に危険で放射能はゼロにすべきなのだから、そのリスクなんてどうでもいいのだ。これは「放射線のリスクはわからないが原発が危険だということだけはわかる」と主張する安富歩氏と同じだが、山本のほうが余計な理屈がないだけわかりやすい。
山本は、丸山眞男のいう「古層」的な思考様式が現代の日本に生きている貴重な標本である。丸山は日本の古代的な規範の特徴として「集団的功利主義」と「心情の純粋性」をあげた。
集団的功利主義とは西洋的な個人ベースの功利主義ではなく、共同体の「吉凶」を基準にして善悪を決める規範である。ここでは共同体がケガレによって汚染されるのをハライ・キヨメで浄化することが儀式の役割だ。μSvの放射線のケガレを忌避して瓦礫の受け入れを拒否する自治体に対しては、さすがに河野太郎氏も「震災がれきの受け入れに賛成する」と表明したが、ツイッターの反響は「裏切り者!」といったRTで埋まっている。
心情の純粋性は、山本太郎の唯一の売り物だ。仕事を干されたことが純粋さの証明になり、目的の合理性は問われない。共同体をハライ・キヨメで浄化するためには、その儀式を行う祭司の心が純粋でなければならないので、これが内面化されるとキヨキココロを尊重する美意識が生まれる。原発問題でも、環境保護の社会的費用を考える人々は「御用学者」とか「原子力村」といったレッテルを貼られ、不純なクラキココロとされる。
こうした心情の純粋性を重んじる日本的情緒は、時として結果を無視した心情の暴走をまねく、と丸山は指摘した。その典型が、天皇親政を求めてクーデタを起こした皇道派青年将校である。五・一五事件では首相を暗殺するという重大な犯罪にもかかわらず、117万人が犯人の助命嘆願をした。そういう「空気」が、ますます青年将校のヒロイズムを高め、二・二六事件から戦争へとつながった。
これは山本七平の指摘した「空気」の支配と似ている。客観的リスクを無視して「PCBが有害でなくても気持ち悪いからゼロにしろ」とか「ダイオキシンはどんな微量でも有害だから全国のゴミ焼却炉を廃棄しろ」とか「できるかできないか考えないで原発をゼロにしよう」という朝日新聞のような心情倫理が、日本人には広く支持を受けるのだ。
イデオロギー的には逆の立場だった丸山と山本が、ほとんど同じことを指摘しているのは興味深い。このような心情の暴走が起こる原因も、彼らが共通に指摘するように目的合理性の欠如である。それは対外的な戦争が少なく、共同体の秩序を維持することがもっとも重要だった日本の特殊性によるものだろう。身内の融和を守るために対外的な戦力を犠牲にするような部族は、中東のような地域では淘汰されてしまうが、日本はそういう経験をしたことがなかった。
戦後の「革新陣営」も、こうした心情の純粋性に依拠していた。それは決して権力をとらず、結果責任を問われないことを前提にした「甘え」である。さすがに福島みずほ氏のように古典的な空想的社会主義は支持を失ったが、結果を考えないできれいごとを主張する「平和ボケ」は、反原発運動に受け継がれている。山本太郎は、こうした日本の伝統を象徴するトリックスターである。
集団的功利主義とは西洋的な個人ベースの功利主義ではなく、共同体の「吉凶」を基準にして善悪を決める規範である。ここでは共同体がケガレによって汚染されるのをハライ・キヨメで浄化することが儀式の役割だ。μSvの放射線のケガレを忌避して瓦礫の受け入れを拒否する自治体に対しては、さすがに河野太郎氏も「震災がれきの受け入れに賛成する」と表明したが、ツイッターの反響は「裏切り者!」といったRTで埋まっている。
心情の純粋性は、山本太郎の唯一の売り物だ。仕事を干されたことが純粋さの証明になり、目的の合理性は問われない。共同体をハライ・キヨメで浄化するためには、その儀式を行う祭司の心が純粋でなければならないので、これが内面化されるとキヨキココロを尊重する美意識が生まれる。原発問題でも、環境保護の社会的費用を考える人々は「御用学者」とか「原子力村」といったレッテルを貼られ、不純なクラキココロとされる。
こうした心情の純粋性を重んじる日本的情緒は、時として結果を無視した心情の暴走をまねく、と丸山は指摘した。その典型が、天皇親政を求めてクーデタを起こした皇道派青年将校である。五・一五事件では首相を暗殺するという重大な犯罪にもかかわらず、117万人が犯人の助命嘆願をした。そういう「空気」が、ますます青年将校のヒロイズムを高め、二・二六事件から戦争へとつながった。
これは山本七平の指摘した「空気」の支配と似ている。客観的リスクを無視して「PCBが有害でなくても気持ち悪いからゼロにしろ」とか「ダイオキシンはどんな微量でも有害だから全国のゴミ焼却炉を廃棄しろ」とか「できるかできないか考えないで原発をゼロにしよう」という朝日新聞のような心情倫理が、日本人には広く支持を受けるのだ。
イデオロギー的には逆の立場だった丸山と山本が、ほとんど同じことを指摘しているのは興味深い。このような心情の暴走が起こる原因も、彼らが共通に指摘するように目的合理性の欠如である。それは対外的な戦争が少なく、共同体の秩序を維持することがもっとも重要だった日本の特殊性によるものだろう。身内の融和を守るために対外的な戦力を犠牲にするような部族は、中東のような地域では淘汰されてしまうが、日本はそういう経験をしたことがなかった。
戦後の「革新陣営」も、こうした心情の純粋性に依拠していた。それは決して権力をとらず、結果責任を問われないことを前提にした「甘え」である。さすがに福島みずほ氏のように古典的な空想的社会主義は支持を失ったが、結果を考えないできれいごとを主張する「平和ボケ」は、反原発運動に受け継がれている。山本太郎は、こうした日本の伝統を象徴するトリックスターである。