宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰宗教は、社会科学の難問である。それは近代的な尺度で考えると何の実用的な意味もないように思われるが、何らかの形の宗教をもたない社会はなく、歴史上の戦争の多くは宗教を争点として戦われてきた。この無意味なシンボル体系が、人々をそれほど強く引きつけるのはなぜかというのは、社会学や人類学の最大の謎である。

デュルケーム以来の社会学では、宗教は人々を統合するシステムだと考えるが、それだけでは未開社会にみられる複雑な儀礼や神話の説明がつかない。機能主義的に考えると、どうみても無駄な部分が多すぎるからだ。レヴィ=ストロースは神話を合理的な思考体系として説明することによって機能主義の限界を突破したようにみえたが、最近の考古学や生物学の発展によって、彼の理論も否定されつつある。

最大の発見は、人類の初期の社会は均衡状態の「冷たい社会」ではなく、戦いの連続だったということだ。狩猟民は数十人の小集団で移動して戦争を繰り返し、死者の13~5%は殺されたと推定される。こうした激しい戦争は、2万年前の氷河期の終わりごろまで続いた。氷河によって地表がおおわれ、乏しい食糧をめぐって部族どうしの戦闘が日常化していたため、1万年前に農耕が始まるまで、人口はほとんど増えなかった。

現在の人類の遺伝子はこの時期からほとんど変わっていないので、戦闘のための感情が遺伝的に備わっており、E. O. Wilsonのいう多レベル淘汰に決定的な役割を果たしたと考えられる。新しい進化理論についての彼らのテーゼは単純である:
Selfishness beats altruism within single groups. Altruistic groups beat selfish groups.
一つの部族の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、部族間の競争では利他的な個体からなる部族の団結力が強いので戦争に勝つ。したがって利己主義と並んで、それを抑制する利他主義が遺伝的に備わっていると思われる。経済学の想定しているようなエゴイストだけからなる部族は、戦争に敗れて淘汰されてしまうので合理的ではない。

この推定は、現代に残っている未開社会で実証される。オーストラリアのアボリジニは4万5000年ぐらい前から孤立しているので、氷河期の行動が残っていると推定されるが、彼らの通過儀礼は4ヶ月も続き、その間に儀礼のない日は1日もない。これは子供を一人前の「戦士」として鍛える儀式で、割礼などの痛みに耐えた者だけが共同体のメンバーとして迎えられる。人々は儀礼の間ずっと踊り続け、合唱や演劇が行なわれる。

言語や音楽は、こうした儀礼のために生まれた、と本書はいう。特に言語は、戦闘に際して敵味方をわける暗号として機能するため、それを習得することはきわめて重要だった。部族の規範に従わない者は容赦なく部族から追放され、それは死を意味した。実用的な目的のない音楽がすべての部族にあり、むしろ未開社会ほど激しく音楽や舞踏が使われることは、これが集団のために個人を犠牲にする儀式の道具だったことをうかがわせる。

宗教的な儀式が無駄なエネルギーを消費しているようにみえるのも、合理的に説明できる。進化ゲーム理論でよく知られているように、贈与は共同体から出ると無駄になるサンクコストとして個人を縛りつけるしくみであり、複雑で苦痛をともなう儀式も同様の参入障壁(=退出障壁)だと考えることができる。人々がサンクコストを意識するバイアスもおそらく遺伝的なもので、音楽や芸術のような無駄なものが好きなのもこのためかもしれない。

氷河期の特徴を残す未開社会は非常に平等主義で、指導者も序列もなく、共同体のメンバー全員が儀式を行なうので宗教的な組織もない。時おり強いリーダーが出てくると集団から追放され、殺されることもある。利己的な個体が利他的な部族を乗っ取ることを防ぐためだ。しかし農耕社会になると、大集団で定住するために国家によって戦争を抑止するシステムができ、一神教や階級社会が生まれた。

平等主義の部族社会は今日の先進国ではカルト集団ぐらいしかないと著者は書いているが、日本はその例外である。日本列島が大陸から切り離されたのは2万年ぐらい前だから、氷河期の多レベル淘汰で利他的な感情が遺伝的に備わっていると考えられるが、日本列島は気候が温暖で水も豊かなので農耕に適していた。このため資源を奪い合う戦争が少なく、海で隔てられて異民族の侵略もなかった。

つまり日本列島に渡ってきたわれわれの祖先は、戦闘のための集団主義を遺伝子に埋め込んでいたのだが、定住して大集団になるとき、戦争を抑止する必要があまりなかったため、日本列島全体で一つの言語を話すようになり、部族を超える国家権力や超越的な一神教が生まれなかった。それは2万年前に大陸から切り離され、アボリジニのように「ガラパゴス化」した部族社会なのである。

追記:Bowlesの論文が本書と同じ問題を経済学の観点から論じている。