エネルギー政策について世界の専門家の意見を集めたGEPRが、きょうスタートした。既存の主要な文献を邦訳して紹介するほか、専門家のコラムを毎週のせる予定だ。今週は『放射能と理性』の著者、ウェイド・アリソン氏の「放射線の事実に向き合う――本当にそれほど危険なのか?」。
飛行機事故と原発事故は、確率が低いという点でよく似ているが、大きな違いがある。共産圏という特殊な条件で起こったチェルノブイリを除くと、原発事故の死者はゼロなのだ。それが数百人の死者を出す飛行機事故以上に騒がれるのは、アリソン氏もいうように冷戦時代の古い線量基準で被害を「想像」しているからだ。おまけに日本では、役所の事なかれ主義が問題をさらに悪化させる。
コストを考えないでリスクゼロを求める人々は、多くの納税者にコストを転嫁するフリーライダーである。それは個人的には合理的(利己的)な行動であり、一つ一つは大した問題ではないようにみえるが、積み重なると現在の政府債務のような巨大な問題になる。それが破綻して、自分の稼いだだけしか使えないようにならないと、フリーライダーの目は覚めないのだろう。
新しい技術がもたらされる時にリスクはきちんと理解されず、監視や管理の体制は不十分だ。だから、安全に対する事前の予防策を考えるのは理屈にかなっている。例えば「蒸気自動車」が初めて登場した時、はじめは蒸気だったが後に内燃機関によって運転されるようになった。市民からの圧力を受け、時速2~4マイルで走らなくてはならないという安全法が1865年の赤旗法(英国)として成立した。現在でも「リスクゼロ」にするためには、自動車の制限速度は時速10kmぐらいにしなければならないし、飛行機は禁止するしかない。世界の飛行機事故の死者は、70年代には年間3000人を超えたが、現在は数百人に減っている。70年代にリスクゼロを求めて飛行機を禁止していたら、現代文明は大きく立ち後れただろう。
現代の文明化において幸運だったのは、偶然にも放射線が発見されたのと同じ年の1896年には、このような交通規制は20倍またはそれ以上に緩やかになったことである。はじめ人々は、初期段階の技術水準の交通手段は受け入れられない(また、馬を驚かすだけだろう)と考えたが、次第に技術が改善されて事故率は低下した。人類はリスクを受け入れ利益を得ることを受けいれたのだ。
飛行機事故と原発事故は、確率が低いという点でよく似ているが、大きな違いがある。共産圏という特殊な条件で起こったチェルノブイリを除くと、原発事故の死者はゼロなのだ。それが数百人の死者を出す飛行機事故以上に騒がれるのは、アリソン氏もいうように冷戦時代の古い線量基準で被害を「想像」しているからだ。おまけに日本では、役所の事なかれ主義が問題をさらに悪化させる。
医療用の画像診断に用いられる放射線は、患者に対し内部または外部の放射線源から照射することで、1回当たり5~10mSvの被曝量である。日本政府が最近定めた放射能セシウムの基準値まで汚染された肉を食べて、この放射線量と同じ量だけ被曝するには、およそ4ヶ月の間に1トンの肉を食べなくてはならないのだ。これは6月の暫定規制値で、12月には100Bq/kgに強化された。これによって福島産の農畜産物は全面禁止に近い状態になるが、農協は意に介さない。彼らはこれを政府に全量買い上げさせるからだ。仕事のなくなった農水省にとっても、この「原発利権」は天の恵みだろう。
コストを考えないでリスクゼロを求める人々は、多くの納税者にコストを転嫁するフリーライダーである。それは個人的には合理的(利己的)な行動であり、一つ一つは大した問題ではないようにみえるが、積み重なると現在の政府債務のような巨大な問題になる。それが破綻して、自分の稼いだだけしか使えないようにならないと、フリーライダーの目は覚めないのだろう。
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