江川紹子氏が、ツイッターでおもしろい考察をしている。
きっぱりはっきり明快な意見に、私たちは弱い。とりわけ、自分がかつて経験したことのない状況に陥らされ、今後の展望が見えない不安ではなおのこと。しかも、「それが、あなたのためだ」と親切そうに言われると、そっちの方が信じられるような気分に陥ってしまいがちだ。

今の日本、とりわけ福島の人たちは、いわば放射能という見えない檻の中に入れられている状況かもしれない。その中で、本当に誠実な人は誰か、長期にわたって自分たちの味方となるのは誰かを見失わないようにしないと。きっぱりはっきり明快な言説が、最後まで私たちのためになるとは限らないから。
これは直接には、曖昧な問題に検察が無理に白黒をつけることへの危惧を表明しているのだが、齊藤誠氏のコメントにも通じる。
科学の曖昧さや不確かさに対する皮膚感覚の欠如が、理系に対する文系、専門家に対する市民、原発現場に対する東電本社、電力会社に対する規制当局や投資家など、様々なレベルで生じたことが、今般の原発危機の原因や対応、除染などの極端な反応の背後にあった。
科学の法則は、古典力学の方程式のように例外も曖昧さもないように見えるが、それは実験室の中だけの話である。科学理論を複雑な現象に適用するときは、曖昧さが避けられない。

その顕著な例が、2人とも指摘する低線量被曝のリスクである。次の表はアリソン教授の紹介している広島・長崎の被爆者のデータだが、100mSv以下では死亡リスクは0に近いが0とはいえない。正確にいうと、リスクが小さすぎて統計的に有意な結果が出ないのだ。0.35%以下という微小なリスクは誤差に埋もれてしまうので、それを厳密に検定するには8万6000人ぐらいのサンプルでは足りない。

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自然科学では、億単位のサンプルは(分子の数など)普通にあるが、人間の社会では統計的に有意な結果を出せるサンプルはほとんどないので、計量経済学でも複数の仮説が成立してしまう。疫学も同じで、被爆者のような精度の高いサンプルでも、「微量放射線は有害だ」という仮説も「有害ではない」という仮説も棄却できない。

こうした曖昧さを無視して1mSv以上はすべて有害と断定し、「東電の原子力関係の重役と部長クラス以上は全員を逮捕すべきです」と宣告する武田邦彦氏の意見は、江川氏のいう「きっぱりはっきり明快な言説」だ。このように曖昧な証拠で容疑者を有罪にすることを防ぐために、刑事訴訟法では「疑わしきは被告人の利益に」という原則を設けているのだが、「きっぱりはっきり」した話で正義の味方として拍手を受けたい誘惑は強い。

実務的にも、住民からの「きっぱりはっきり」の要求に応じないと「対応が遅い」とか「隠蔽だ」とか非難されるので、行政は無理やり線を引こうとする。そのとき「疑わしきは有害」と決めると、武田氏のようにそれを絶対化して「国の決めたことは絶対だから違反した者は逮捕しろ」と主張するニセ科学者が出てくる。

いま必要なのは、齊藤氏もいうように「科学の曖昧さや不確かさに対する皮膚感覚」を行政や一般国民に伝える努力だろう。それは多くの人々の正義感を満たさないし、行政の基準としても不満かもしれないが、曖昧な問題について(偽の)明快な答を出すと、数兆円の除染のように莫大な社会的浪費が発生する。曖昧な問題には、慎重な政策決定が必要である。