吉田茂と昭和史 (講談社現代新書)沖縄をめぐる低次元の騒動は、日本の政治の劣化を見せつける。防衛相や局長の失言はいわずもがなだが、それを追及する野党も「沖縄の心を踏みにじるものだ」という類の感情論ばかりで、辺野古をやめたら基地をどうするのかという根本問題には触れようとしない。こうした歪みの根源には、本書もいうように吉田ドクトリンの矛盾がある。

吉田茂は、日本の官僚機構の傍流である外交官だったが、本流の政治家が公職追放されたため、消去法で首相になった。国内に基盤のない吉田は、対米追従によって権力を強化するしかなかった。GHQの押しつけた憲法も、彼にとっては早期に主権を回復するために受け入れるしかない「外交問題」だった。

新憲法は暫定的なもので、講和条約とともに改正する予定だった。吉田は晩年に「憲法第9条は間近な政治的効果に重きを置いたものだった」と語っている。平和憲法は「侵略国」とか「軍国主義」というイメージをぬぐい去るための機会主義的なレトリックであり、日本が豊かになれば改正が必要だと考えていたのだ。

ところが朝鮮戦争が始まってアメリカから再軍備の要求が強まると、吉田は態度を変える。1951年の吉田=ダレス会談では、吉田は「日本は近代的軍備に必要な基礎資源を欠く。再軍備の負担が加わると、わが国民経済はたちどころに崩壊」すると述べて再軍備を拒否した。海外の戦争に派兵するようなことになると、軍事費の負担でドッジラインの緊縮財政が崩壊するおそれがあったからだ。

講和条約のとき、アメリカは沖縄を国連の信託統治領として永久に占領しようとしたが、吉田はこれに抵抗し、沖縄の問題を中途半端に残したままサンフランシスコ条約が結ばれた。沖縄が国の犠牲になったと思っているのは逆で、むしろ敗戦によってアメリカの領土になってもおかしくなかったのを吉田が粘って取り戻したのである。

このように冷戦初期のいろいろな偶然が重なって、暫定的な憲法が改正できないため再軍備ができず、米軍がいつまでも駐留し、1972年に沖縄が返還されても基地は残った。もともと日本政治は伝統的に「中心のない」構造だが、軍事力をもたないために政治の求心力が極端に弱くなった。

沖縄をめぐる混乱の原因は、こうした吉田ドクトリンの負の遺産にあり、防衛相を更迭すれば解決するような問題ではない。基地を男女関係にたとえた沖縄防衛局長の発言が象徴しているように、感情レベルでしか防衛問題を語れないのは、日本政府が日本の防衛の当事者ではないからなのだ。こうした「吉田の呪い」を解かないかぎり、日本はいつまでも政治的に自立できないだろう。