きのうのニコニコ生放送では、『もしフリ』をテーマにして、日本の財政が破綻したら何が起こるかを議論した。そのとき土居丈朗氏が強調していたのは、フリードマンの思想の本質は裁量よりルールということなので、いわゆるリフレ論は彼の思想に反するという話だ。

フリードマンは『資本主義と自由』でこう書いている。
[金融政策のルールとして]自由主義の立場から多く支持されるのは、いわゆるインフレ・ターゲティング、すなわち安定した物価水準の維持を金融当局の任務にすると法律に定めることである。このルールは不適切だと私は思う。金融当局には、自前の手段でこの目標を確実に達成するだけの能力が備わっていないからだ。したがって目標達成の責任をどう分担するかという問題が出てくるし、当局の自由裁量の余地がむやみに大きくなるという問題も持ち上がる。(p.116)
これはインフレ目標を「ルールにもとづく政策」として推奨している人々には奇異に聞こえるかもしれない。しかしジョン・テイラーも指摘するように、物価を下げる手段はわかっているが、不況のとき物価を上げる手段はよくわからない。特に今のようにゼロ金利になっている状況では、何でもあり(do-whatever-it-takes)になり、中央銀行の裁量が非常に大きくなってしまう。

こうした裁量行政が望ましくないのは、目的が正しくないからではない。ポズナーもいうように、裁量で政策を変更することは、事後的には望ましい場合が多い。犯罪者を釈放すると刑務所にかかるコストも節約できるので、恩赦はパレート効率的な行動だが、それによって法律が空文化すると、犯罪が野放しになってしまう。このような時間非整合性をなくすことが法の支配の目的である。

この点で、行政刷新会議の提言した周波数オークションを拒否した電波官僚は、法の支配という近代社会の原則を理解していない。この場合も、個別にはソフトバンクに周波数を割り当てる温情主義が事後的には望ましいようにみえる。しかし周波数を割り当てる権限を総務省がもっていると、業者は料金やサービスで競争しないでロビー活動で競争するだろう。それによって利益を得るのは、利用者ではなく天下り官僚である。

ポズナーも指摘するように、法の支配というのは人類の普遍的な原則ではなく、英米圏に固有の法的イデオロギーである。それは13世紀以降のイギリスで、国王の権力を貴族が制限するために数百年かけて生み出したルールであり、他の文明圏に移植することは容易ではない。法を執行する(実質的に立法する)官僚でさえ法の支配を理解していない日本で、それを実現することは不可能に近い。日本は中国的な「徳治国家」をめざしたほうがいいのかもしれない。