法と文学〈上〉第3版日本では、経済学者と法学者の話は噛み合わないことが多い。経済学者が英米系の新古典派の影響を受けているのに対して、法律家は日弁連のようなゴリゴリの実定法主義(legal positivism)で法解釈学に終始し、市場経済を無視した「正義」を主張することが多いからだ。著者リチャード・ポズナーはおそらく世界でもっとも影響力のある法律家だが、日本ではほとんど知られていない。彼の代表するコモンローの伝統が日本にはないためだ。
「法と文学」というのは奇妙な組み合わせにみえるかもしれないが、これは「実定法の条文を金科玉条とするのではなく、それを一種の文学と考えて、その背後にある意図を読み取る」という意味である。

たとえば著者は、オリバー・ウェンデル・ホームズにならって、法の起源は復讐にあるという。社会のルールに違反した者に復讐することは合理的ではない。殺人を犯した者を死刑にしても被害者が生き返るわけではなく、死者がもう一人増えるだけだ。しかし殺人を放置すると、犯人は次々に殺人を犯すかもしれない。それを防ぐためには、個人的には非合理的な復讐を行なうコミットメント装置としての司法・警察が必要なのだ。

このような応報感情(strong reciprocity)は人々の感情の中にも(遺伝的あるいは文化的に)埋め込まれており、それを制度化したのが法律である。このように法律の基礎にはそれを必要とする経済的な利害があると考え、その費用対効果を経済的に分析するのが、著者の創始した「法と経済学」である。

法律を文学として読むという方法論は、いわゆるポストモダン法学でも流行したが、著者はこうしたCLS(critical legal studies)を批判する。「法は政治である」というCLSの主張は基本的には正しいが、彼らの「脱構築」は多くの場合、法律の中に「ジェンダー」やら「オリエンタリズム」やら、彼らの好みのイデオロギーを読み取る、法律を素材にした反体制的な言説のお遊びである。彼らはすべての解釈の客観的正当性を否定するので、彼らの解釈も恣意的なものでしかない。

これに代わって著者が解釈の根拠にするのは、経済学である。彼はフーコーの「著者という主体は近代社会の生み出した幻想である」という主張を認め、著作権の絶対化を批判する。たとえばシェイクスピアの『ヘンリー6世』は6033行のうち1771行が他人の作品のデッドコピーであり、現代の著作権法ではシェイクスピアは犯罪者である。個人がゼロから作品を創造するというのは18世紀のロマン主義の作り出したフィクションであり、現実にはすべての作品は「引用の織物」である。

ではCLSの一部がいうように、著作権を否定してすべての著作物をコピーフリーにすべきだろうか。これについては、著者は否と答える。将来、テクノロジーが無限のコピーを許しながらクリエイターに報酬を還元することを可能にするかもしれないが、今のところは法律でコピーを禁止するという非効率的な手段しかインセンティブを確保する手段がない。これは著者の専門分野なので、くわしくは"The Economic Structure of Intellectual Property Law"を参照されたい。

上下巻で700ページ、10000円というのはサラリーマンには手が出せないと思うが、法律が科学に優越すると思い込んで独善的な正義を振り回す日弁連のみなさんにはぜひ読んでほしい。