
――という彼の議論は「西洋を一面的に理想化する近代主義」として批判を浴びた。たしかに西洋の文化が体系的なササラ型かどうかには疑問があるが、相対的に日本の文化がタコツボ的(江戸的)であることは否定できない。これは丸山も指摘するように、キリスト教という巨大な体系と闘うことで成立した西洋の学問と、いろいろな文化をごちゃごちゃに輸入してきた日本の学問の違いだろう。
同様の構造は、日本の社会にも政治にもみられる。TPP騒動では民主党は自民党に似た既得権保護の党になり、タコツボ的な分裂と妥協を繰り返している。このようにローカルに閉じたシステムで1億人以上の「大きな社会」を統治できないことは明らかであり、これを意識的に是正して一貫した理念で政界を再編しない限り、政治の混乱は止まらない。
そういうササラ型の政治理念が、日本で大きな力をもったことが一度だけある。それがマルクス主義である、と丸山は指摘する。それは西洋のササラ型の学問体系の「グルント」であるヘーゲル哲学に経済学と社会思想を総合した巨大な体系であり、しかも共産主義運動という実践と不可分だったため、多くの知識人の人生を左右した。
ところがこのように理論が党派性をもつというマルクス主義に特有の特徴が理論の教条化・物神化を生み、丸山のいう理論信仰をもたらした。この結果、日本の左翼の中では欧州的な社民勢力は多数派にならず、マルクス主義は現実との接点を失って一部のインテリの中だけの方言となってしまった。これに対する自由主義の伝統は日本にもともとないため、知識人の中では一貫して少数派であり、「御用学者」や「保守反動」として軽蔑されてきた。
このように理念的な対立軸をもたない日本の政治家が、自民党右派から共産党までTPPを「対米従属」という図式でとらえるのは興味深い現象だ。それは「グローバリズム」という怪物がタコツボを破壊し、部落の中の平和を乱す脅威と映るのだろう。彼らが「アメリカの陰謀」と称するものに実体がないのは、それが「開かれた社会」のメタファーに過ぎないからだ。
しかしタコツボの先に未来はあるのだろうか。たしかにグローバル化はかなり苦痛をともなうだろう。それは所得格差を拡大し、中高年にとって快適な会社共同体は解体を強いられるかもしれない。しかし遅かれ早かれ、変化は避けられない。日本企業が大きな比較優位をもったタコツボ(システム1)の「すり合わせ」の巧みさが、システム2のロジックで闘うグローバル時代には競争優位にならないからだ。
「痛み」を永遠に延期することはできない。タコツボをアドホックにつなぎ合わせ、壺のひび割れを公共事業やバラマキ福祉でとりつくろう自民党や民主党の手法は、もう限界が見えてしまった。「開かれた社会」に移行することは多くの文明社会が(西洋でも中国でも)経験した変化であり、日本だけがそれといつまでも無縁でいることはできない。日本が引きこもっても、アジアの経済統合が進んで取り残されるだけだ。
TPP騒動がはしなくも露呈したのは、タコツボ根性が政治家だけでなく若い世代にも抜きがたくしみついているということだ。それだけ日本のタコツボの求心力(システム1の同質性)は強いのだろう。しかし残念ながら、もう残された時間は少ない。丸山が本書で「日本は開かれた社会への移行期にある」とのべてからちょうど50年たったが、日本の直面する問題はまったく同じなのである。
同様の構造は、日本の社会にも政治にもみられる。TPP騒動では民主党は自民党に似た既得権保護の党になり、タコツボ的な分裂と妥協を繰り返している。このようにローカルに閉じたシステムで1億人以上の「大きな社会」を統治できないことは明らかであり、これを意識的に是正して一貫した理念で政界を再編しない限り、政治の混乱は止まらない。
そういうササラ型の政治理念が、日本で大きな力をもったことが一度だけある。それがマルクス主義である、と丸山は指摘する。それは西洋のササラ型の学問体系の「グルント」であるヘーゲル哲学に経済学と社会思想を総合した巨大な体系であり、しかも共産主義運動という実践と不可分だったため、多くの知識人の人生を左右した。
ところがこのように理論が党派性をもつというマルクス主義に特有の特徴が理論の教条化・物神化を生み、丸山のいう理論信仰をもたらした。この結果、日本の左翼の中では欧州的な社民勢力は多数派にならず、マルクス主義は現実との接点を失って一部のインテリの中だけの方言となってしまった。これに対する自由主義の伝統は日本にもともとないため、知識人の中では一貫して少数派であり、「御用学者」や「保守反動」として軽蔑されてきた。
このように理念的な対立軸をもたない日本の政治家が、自民党右派から共産党までTPPを「対米従属」という図式でとらえるのは興味深い現象だ。それは「グローバリズム」という怪物がタコツボを破壊し、部落の中の平和を乱す脅威と映るのだろう。彼らが「アメリカの陰謀」と称するものに実体がないのは、それが「開かれた社会」のメタファーに過ぎないからだ。
しかしタコツボの先に未来はあるのだろうか。たしかにグローバル化はかなり苦痛をともなうだろう。それは所得格差を拡大し、中高年にとって快適な会社共同体は解体を強いられるかもしれない。しかし遅かれ早かれ、変化は避けられない。日本企業が大きな比較優位をもったタコツボ(システム1)の「すり合わせ」の巧みさが、システム2のロジックで闘うグローバル時代には競争優位にならないからだ。
「痛み」を永遠に延期することはできない。タコツボをアドホックにつなぎ合わせ、壺のひび割れを公共事業やバラマキ福祉でとりつくろう自民党や民主党の手法は、もう限界が見えてしまった。「開かれた社会」に移行することは多くの文明社会が(西洋でも中国でも)経験した変化であり、日本だけがそれといつまでも無縁でいることはできない。日本が引きこもっても、アジアの経済統合が進んで取り残されるだけだ。
TPP騒動がはしなくも露呈したのは、タコツボ根性が政治家だけでなく若い世代にも抜きがたくしみついているということだ。それだけ日本のタコツボの求心力(システム1の同質性)は強いのだろう。しかし残念ながら、もう残された時間は少ない。丸山が本書で「日本は開かれた社会への移行期にある」とのべてからちょうど50年たったが、日本の直面する問題はまったく同じなのである。