丸山眞男講義録〈第7冊〉日本政治思想史 1967大学の講義録なんて、普通は本としては読めたものではないが、丸山眞男の講義は単行本ぐらいの密度がある。同じ「日本政治思想史」の講義でありながら、毎年テーマを変え、詳細なノートを用意している。本書は1967年の講義だが、半分近くが「歴史的前提」と題した日本文化論にあてられている。ここで「原型」として論じられているのが、のちに「歴史意識の『古層』」で彼が論じたテーマである。
呪術の世界にはそれぞれのsituation(場)にそれぞれの精霊が内在している。かまどの神とか、へっついの神とか、厠の神とかいう表象をみよ。だから、特定の場に特定の祭儀が対応することとなり、祭儀自体が多様性をもつ。いいかえれば、「聖なるもの」が多様であって、場に応じて使い分けられることになる。(pp.60-61 強調は原文)
彼はこのような日本人の状況に依存した行動様式をキリスト教と対比しているのだが、その「原型」=「古層」を成り立たせるロジックは、ほとんど山本七平の「空気」を思わせる。ただ、山本が「アニミズム」という荒っぽいくくり方をしたのに対して、丸山は日本の共同体の構造に起源を求める。

日本では村落の自律性が高く、全国を統一する中央集権国家が近代以前には成立しなかったので、普遍的な倫理規範が成立せず、「共同体的功利主義の基準は、その共同体にとっての福祉・災厄であり、特別主義(particularism)である」。これに対して心情が純か不純かという審美的な基準も強いため、「『感覚美』の閉鎖的なコスモスがつくられれば、それが絶対性をもつ傾向性がある」(p.66)。

このように日本文化の「原型」には一貫した論理が欠けている代わりに、「形」への強いこだわりがある。善悪も絶対的な対立ではなく、「けがれ」を清めることによって相対化される。外来の宗教や知識を吸収するときも、その形は忠実に守るが、内容は「日本的」に換骨奪胎してしまう。天皇もこうした形の一つであり、それは1000年ぐらい前に権力としての実体を失いながら、武家政権はその「臣下」としてふるまってきた。

このようなシステムは、強い権力なしにローカルな共同体が「形」を共有することで平和共存することを可能にした。江戸時代の長い平和は、そのたまものだ。幕府は秩序を固定化し、分立する「くに」を互いに牽制させることで平和を守ったが、それは経済活動の停滞をもたらした。

こうした歴史の中で一貫しているのは、「なりゆき」の連続性を重視し、多くの人の共有する「いきほひ」に同調する行動様式である。そこでは絶対的な理念や目的の合理性は問われず、「ここまで来たんだからやめられない」という理由で現状が維持され、過去と未来がずるずるとつながる。この「古層」の上に築かれる政治的秩序は、形の上では儒教や憲法などの文書で定められるが、その実態は特殊主義的な利害や人間関係で決まる。

こうした伝統は、江戸時代も今もほとんど変わっていない。絶対的な理念や権力が不在の状況では、理念をめぐる争いも起こらず、権力を倒す変革も起こりえない。変化の契機は、つねに外からしか出てこないので、鎖国にみられるような排外主義が日本的な秩序を守る上では有効である。TPPで「黒船」が来るのを恐れる政治家は、そうとは意識しないで日本人の「原型」を再現しているのだ。