マルクスは20世紀の歴史に最大の影響を与えた思想家だが、それを理解している人はほとんどいない。あの観念的で難解な思想が、なぜ全世界の知識人と労働者を魅惑し、100年近くにわたって世界史を動かしたのかは今も謎である。本書は1978年にポーランド語で書かれた古典だが、初めて邦訳が出た。
著者の答は、マルクスの思想とマルクス主義の運動は別のものだったということだ。マルクスの思想は高度なものだが、彼がそれを『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。
ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の科学性が証明されると主張した。このように独特な形で「科学的社会主義」の理論と実践を結びつけたことが成功の一つの原因だが、その運動の実態は理論とはおよそかけ離れたものだった。
しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになった。これは国家の廃止というマルクスの考えていた窮極の目的と矛盾する政策であり、本来の「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
著者の答は、マルクスの思想とマルクス主義の運動は別のものだったということだ。マルクスの思想は高度なものだが、彼がそれを『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。
ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の科学性が証明されると主張した。このように独特な形で「科学的社会主義」の理論と実践を結びつけたことが成功の一つの原因だが、その運動の実態は理論とはおよそかけ離れたものだった。
マルクスは平等主義を否定した
社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は平等主義を否定し、経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にした。どう分配するかは労働者自身が決めればよいと考えていた。しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになった。これは国家の廃止というマルクスの考えていた窮極の目的と矛盾する政策であり、本来の「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
ロシア革命という脱線
本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。