田原総一朗氏が「脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている」というコラムを書いている。60年安保を指導した西部邁氏は、安保条約がどう改正されるのか知らなかった。「岸を倒せ」という気分だけで騒いだのだ。70年安保に至っては、単に自然延長しただけだ。

政治に対する不満は、どこの国でもある。イギリスで起きている暴動も理由は大したことなく、現状を破壊すること自体が目的だ。しかし日本では反体制運動が、連合赤軍や内ゲバという凄惨な形で終わったため、ここ30年ほど起きなかった。そこで極左は「反原発」ではなく「脱」という曖昧な言葉で多くの人々を動員する戦術に転換したのだ。6・11新宿デモや「エネルギーシフト勉強会」の事務局に中核派がいたことは公然の秘密である。

もちろん動員されている人々の大部分は、そんなことは知らないだろう。今度の事故で初めて原発を知った初心者がマスコミの流す恐怖にあおられ、「子供の命」とか「自然を守れ」といった気分で反応している。社会運動や宗教のスローガンは人々の「古い脳」を刺激する必要があるので、脱原発という言葉はそれに久々に成功したわけだ。しかしこの言葉は、そもそも何を意味しているのかもはっきりしない。よく使われているのは次のような意味だ:
  1. すべての原発をただちに止める
  2. 原発をゼロにする
  3. 原発を新設しないで減らしてゆく
1は社民党や中核派ぐらいしか言っていないが、2は朝日新聞や河野太郎氏などが主張している。3は孫正義氏の「原発ミニマム」や民主党政権の「減原発」に近い。共通しているのは「今より原発を増やさない」ということぐらいだが、そんなことは自明である。今から原発を新設しようとは、電力会社でさえ考えていない。つまり脱原発というのは、アンポハンタイほどの意味もない呪文にすぎない。

政府に対して抗議する運動が日本でも久しぶりに生まれたのは悪いことではないが、肝心の首相がそれに迎合したので、反政府運動としては空振りになってしまった。民主・自民含めて原発をこれから増やそうという政治家はいないので、脱原発の国民投票なんてナンセンスもいいところだ。そういうsingle issueは運動のスローガンとしてはいいが、まともな政策にはなりえない。

私の30年前からの経験では、この種の運動にはサイクルがあって、だいたい事故が起こると「原発こわい→反原発→再生可能エネルギー」という風に気分が動いてゆく。最初のブームは80年代に起こって、政府も太陽光発電所をつくったが、消えてしまった。今度も同じだろう。

60年安保も70年安保も脱原発も、政治的にはナンセンスだが、「ガス抜き」としては意味がある。それは父の世代に反抗する若者の「通過儀礼」の一種なのだ。かつて社会主義革命が不可能であることを知った学生たちは大人になり、企業戦士として高度成長を支えた。これを機に、若者が政治経済を真剣に考えるようになれば、ダツゲンパツも悪くない。